ニジェガローツキ-・ドヴォ-ル (トップページ)ニジニ・ノヴゴロド紹介ニジニ・ノヴゴロド州の人口

ニジニノヴゴロド・クレムリンの内側
 中央に聳えるのは主塔「ドミトロフスカヤ塔」

ロシアの古都の一つに数えられ、「ヴォルガの都」とも謳われるニジニ・ノヴゴロド。
しかし、ソ連時代に閉鎖都市として外国人の立入が禁じられていたことから日本人には馴染みが薄く、わずかに戯曲「どん底」を生んだ作家マクシム・ゴーリキー氏に因んだ旧名「ゴーリキー市」として知られるぐらいでした。
そんなニジニ・ノヴゴロドに語学留学の機会を得て、はじめてこの都市に足を踏み入れたのは1996年2月のことです。このページでは、はじめて見て歩いたニジニ・ノヴゴロドの街並みを回想し、ご紹介します。
おことわり
ここに書いているニジニ・ノヴゴロドの様子は1996〜97年当時のものです。現在では大きく変わっているところもあることをご留意下さい。
また、文中に
ロシア語表記を添えていますが、「通り」 улица [ウーリツァ]は ул. 、「広場」 площадь [プローシャチ]は пл. と略しています。

【到着と第一歩】
1996年2月3日午前6時5分。前夜モスクワ・カザン駅を発車した夜行列車「ヤールマルカ」 Ярмарка 号がニジニ・ノヴゴロドのターミナル駅「ゴーリキー・モスクワ駅」 Горький Московский вокзал に到着した。
初めて目にするニジニ・ノヴゴロドだが、冬の早朝は日明けに至らず、まだ真っ暗。しかし、雪に覆われた街並みの所々に朝の営みの明かりが灯り、ここが大都市の一角であることが見て取れる。1月31日に神戸を出て、東京、モスクワを経由して、4日目にしてやっと憧れのニジニの地に立つ。感無量であった。

列車「ヤールマルカ号」の表示板

語学留学の機会を得たとき、敢えてニジニを選んだのはこの街を知っていたからではない。同じロシア語を勉強するのであれば、日本人の居そうもない所、長期滞在に不自由がなく飽きのこない大都市、かつモスクワへの足回りの良さを考えて、地理的にこの都市を候補に上げていたのだが、たまたま前年この街の言語大学が日本人留学生を受け入れた経験があり、その留学経験者の体験談記事を読み、共感したことから「ニジニ・ノヴゴロド国立言語大学」を選んだのであった。

先の留学生より予め入手した地図によれば、大学はオカ川 река Ока 右岸の都心に近い丘の上のニジニノヴゴロド区ミーニン通り ул. Минина にあり、今いる鉄道駅はオカ川左岸の低地、カナヴィノ区に位置している。
今期の海外からの留学予定者は私一人だけということで、大学側の担当者が駅まで出迎えに来る手筈であったが、こんなに朝早く来てくれるのだろうかとの一抹の不安を持ちながらもロビーで待っていた。
待つことわずか数分、恰幅の良い紳士然とした中年と、まだ若い青年の2人のロシア人が自家用車で迎えに来てくれた。大学の国際部長とその助手のようであったが、もしかするとご子息だったかも知れない。

車は「革命広場」 пл. Революции と言う名の駅前を離れ、ソヴィエト通り ул. Советская という下町らしい古い建物が続く通りを北に進むと、右手にオカ川、左手にはレーニン像に続いてロシア史で「ニジニ・ノヴゴロド定期市」として知られる「ヤールマルカ」 Нижегородская Ярмарка の荘厳な建物を一瞥する。間もなく右に折れ、オカ川とヴォルガ河の合流点に架る「カナヴィノ橋」 Канавинский мост にさしかかった。
橋の向こうには台地が見え、その斜面一帯には壮大な城砦「ニジニノヴゴロド・クレムリン」 Нижегородский Кремль が見える。未明の暗闇の下、古い街並みと、結氷したオカとヴォルガ、そして幻想的なクレムリンという光景のすべてが白い雪に覆われて、まるで昔の白黒映画の中にタイムスリップしたような感動を覚えた。

ヤールマルカの本館 1890年築
Главный дом Нижегородской Ярмарки

オカ川 と カナヴィノ橋
橋の向こうはヴォルガ河である

「カナヴィノ橋」を渡り、ニジニノヴゴロド区に入りしばらくは左手にヴォルガを眺める「下ヴォルガ河岸通り」 Нижневолжская набережная を進むと、台地に刻まれた深い谷の急坂を上りはじめた。左手にクレムリンの城壁を望み、坂を上り切ると広い台地の上に広大な市街地が見えてきた。ここがクレムリンに隣接する都心の「ミーニンとポジャルスキー広場」 пл. Минина и Пожарского のようである。
ニジニの都心の街路は、この広場から放射状に延びており、一番北に位置するのが歩行者天国になり、ヴォルガを望む絶景として知られる「上ヴォルガ河岸通り」 Верхневолжская набережная 、その一つ手前が大学の建っている「ミーニン通り」である。
車は如何にも文教街風のミーニン通りを東に進み、「ニジニ・ノヴゴロド国立言語大学 Нижегородский государственный лингвистический университет им. Н.А. Добролюбова 」に到着した。

下から望むクレムリン
左上に見えるのはクレムリン12塔の一つ
タイニツカヤ塔
Тайницкая башня

【寮と大学】
大学に入る前に、まずその裏手に当る大通りの「大ペチョールスカヤ通り」 ул. Большая Печёрская に建つ9階建ての寮に案内され、荷物を運んだ。ここの9階が「外国人用」ということで、これからの住まいとなるのだが、エレベーターは8階までで、9階へ通じる階段には防犯用の鉄格子が掛けられていた。
9階全体で12部屋あり、これが4部屋ごと3区画に分けられている。トイレとシャワー室は1区画に一つ、台所は階全体共用で大きな1室が設けられている。後に知ったことだが、この9階に長期住むのは私以外には英国人の若い交換教員だけであった。残りの部屋は大学専用のホテルの役割を果たしており、特に通信教育生が試験を受けに来るときには全部屋が満員となっていた。(注、現在では状況が変わっています。)
部屋が割り当てられ、自室と鉄格子の鍵を手渡される。
「ジェジュールナヤ」と呼ばれる当直のおばさんに挨拶を済ませると寮を出て、国際部長は大学の建物を案内してくれた。

大学寮 (正面が入り口)

大ペチョールスカヤ通り
「大学」といっても、日本の大学のようなキャンパス風ではなく、4〜5階建て程度の箱型の建物がミーニン通りに面して2棟、大ペチョールスカヤ通りに面して1棟建っているだけで、その間は「ドヴォール」と呼ばれる空き地である。グラウンドなどはない。
大学校舎内の各施設をひと通り案内されると、壁に貼られたニジニ・ノヴゴロドの市街地図を指して、市街を2分するオカ川の西(左岸の5区)は工業地帯で、東(右岸の3区)に比べて治安が悪く、あまり行かないようにとの説明を受けた。
学内で今後の留学生活などの説明をひととおり終えると、朝も9時になっており、丁度天気も快晴で、これから市街を案内してくれるという。神戸からの長旅の疲れがないことはなかったが、ニジニに着いたという感激のほうがはるかに大きい。朝9時といってもまだ慣れていないモスクワ時間のことで、日本時間にすれば午後3時である。
ここは一も二もなく、ご案内いただく事にした。
ミーニン通りと言語大学

    

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