ニジェガローツキ-・ドヴォ-ル (トップページ)|ニジニ・ノヴゴロド州の人口
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オカ川とヴォルガ河の合流点をクレムリンの丘から望む (1996年4月撮影) | ||
ニジニ・ノヴゴロド紹介 | ||
ロシア第3の都市圏人口を持つ大都市ニジニ・ノヴゴロド市は、ヨーロッパ・ロシアのほぼ中央を流れる大河ヴォルガの河畔にある港町の風吹く古都です。この街に1年間居住して、その美しさと落ち着いた佇まいにすっかり魅せられました。 |
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このコーナーは、当サイトのタイトルに用いている日本人には馴染みの薄いニジニ・ノヴゴロド市について、 「心の故郷 ニジニ・ノヴゴロド」と題して、紹介するページです。 |
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ニジニ・ノヴゴロドについては、各種出版物、地図、ホームページには、「ニジニーノブゴロド」、「ニージュニーノヴゴロド」「ニジニノブゴロド」などの表記が見受けられますが、当ウエブサイトでは比較的原音に近い「ニジニ・ノヴゴロド」の表記を用いています。 |
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ヴォルガはニジニ・ノヴゴロドの入口である ヴォルガはここへ未来の創始者達を連れて来た ヴォルガはここに名を与えた 中世のこの地方は下流域であった ヤロスラフ賢公が築いたヴォルガのヤロスラヴリから モスクワとリャザンの大地からオカ川を通って ルーシの都・ウラジーミルからクリャジマ川を通って 東ルーシの総ての川の流れは下流のここへ オカとヴォルガの合流点へ もうこれ以遠のヴォルガの岸辺は異民族の大地である それゆえ、“ニジニ”と呼ばれる。 |
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ヴォルガの夕暮れ (1996年4月撮影) | ||
ニジニ・ノヴゴロド Нижний Новгород とは |
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ニジニ・ノヴゴロド市は、ロシアの大河ヴォルガに、その右岸最大支流オカ川が合流する所に開けた都市で、都市圏人口では、モスクワ、サンクト=ペテルブルグに次ぐ、ロシア第3位を誇っています。 都市は1221年にロシア東端の砦として建設され、都市名の「ノヴゴロド Новгород」は「新しい-Новый、都市 город」を意味しますが、同名の都市は他にもあり、特に古代ルーシの都ノヴゴロド(現、ヴェリーキー・ノヴゴロド)との混同を避けるため、「下」を意味する「ニジニ Нижний」を冠します。 この「下」とはヴォルガの「下流」を差しますが、地図上でのニジニ・ノヴゴロドは寧ろヴォルガ中流から上流にあたります。これは、この都市が建設された13世紀前期には、ニジニ・ノヴゴロドよりも下流域はロシアの版図ではなかったことに由来しています。 |
ニジニ・ノヴゴロド市の公式サイトへ | ||||||||||||||||||||
市のデータ | ニジニ・ノヴゴロドのシンボル 「ニジニノヴゴロド・クレムリン」 都市はこのクレムリンを中心に発展した。 (1997年3月撮影) |
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【位置・地勢・交通】 |
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ニジニ・ノヴゴロド市は露都モスクワから東に439キロの地点に位置し、ロシアの母なる大河ヴォルガ Волга(何ゆえ「父」でなく「母」かといえば、「ヴォルガ」が女性名詞だからです)にヨーロッパロシア中央部をくねるように流れる大河オカ Ока 川が流れ込む合流点に位置しており、この合流点を中心としたヴォルガ河南岸(右岸)一帯を市域としています。 当然、市域はオカ川によって東西に2分され、オカ川東岸(右岸)は台地を形成し、坂の多い市街を成し、北からニジニノヴゴロド区、ソヴィエト区、沿オカ区の3つの行政区があり、一方西岸(左岸)は一面の低地帯で工業地帯でもあり、こちらも北からソルモヴォ区、モスクワ区、カナヴィノ区、レーニン区、自動車工場区の5区に分割されています。 市発祥の地であるクレムリン(城砦 Нижегородский Кремль[二ジェガローツキー・クレームリ])はオカ川東岸のヴォルガ合流点の台地上に位置し、このクレムリンを中心として放射状に街路は伸び、付近一帯は都心部を形成しています。 一方、交通機関はオカ川西岸のカナヴィノ区に位置する鉄道駅モスクワ駅を中心とし、そこから地下鉄が南の自動車工場区(アフトザヴォーツカヤ線)と西のソルモヴォ区(ソルモフスカヤ線)へ伸びていますが、都心部を形成する東のニジニノヴゴロド区へは市街電車(チンチン電車)か、バスまたは乗合タクシーで行くのが長らく一般的でした。 このように市街を完全に東西に分かつオカ川ですが、東西両市街地間を結ぶ橋は僅かに3本しかなく、これが市内交通のネックになっていることは否めません。オカ川東岸の都心への地下鉄乗り入れを市民は強く望んでおりました。そして、このオカ川を越えての4本目の橋「メトロ橋」の建設は、2009年になってまず自動車道部分が開通し、2012年11月4日にようやく地下鉄線部分が開通し、アフトザヴォーツカヤ線の一部としてマクシム・ゴーリキー広場まで運行されています。 空港は、市域最南西端の自動車工場区の街外れに位置しており、国際便はドイツ・フランクフルト便の他にはバクー(アゼルバイジャン)、エレヴァン(アルメニア)があるだけです。国内便はモスクワ・シェレメーチエヴォ第1空港へ1日2便ある他、モスクワ・ドモジェードヴォ、カザン、サマーラ、ウファへの直行便があります。 日本からは、モスクワ経由で鉄道を利用するのが一般的です。モスクワ・カザン駅発の「ヤールマルカ Ярмарка」、およびモスクワ・クルスク駅発の「二ジェガロージェッツ Нижегородец」の2本の夜行列車で早朝にはニジニ・ノヴゴロドに到着します。 また意外なことに、このニジニ・ノヴゴロドは内陸に位置していながらも、れっきとした港町です。といっても河港ですが、ヴォルガを介してモスクワはおろかイラン北岸を含むカスピ海沿岸諸国へ、またヴォルガ=バルト運河を経由すればバルト海に通じ欧州各国へ、ヴォルガ=ドン運河を経由すれば黒海から地中海諸国方面へも出られる貿易港の側面も併せ持ちます。 この街の産業は、まさに潜水艦から水中翼船、戦闘機からテレビ、石鹸まで「何でもあり」ですが、やはり特筆すべきは巨大な自動車工場でしょう。他にも造船業、機械製造工業、化学工業、食品工業、工芸品製作も盛んだそうです。 代表的な繁華街はクレムリンに隣接するミーニン広場から南にマクシム・ゴーリキー広場までのびる約2キロ「大ポクロフスカヤ街」が見事な景観の商店街を形成しており、他にはモスクワ駅周辺部は雑多なキオスク街と中央市場、百貨店を中心とした商業地となっています。 |
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【略史】 |
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1221年、ヴラジーミル大公ユーリー・フセヴォロドヴィッチによりヴォルガ中下流域のモルドヴァ人等の異民族に対するルーシ東端の防衛拠点として木造で建設された城砦を市の起源としますが、1239年にはモンゴル軍の襲来を受け陥落します。 14世紀になり、モンゴル=タタールの影響が徐々に薄れるにつれ、1350年にはニジニノヴゴロド=スズダリ公国(1341〜1392)の首都となりますが、1374年に従順でないニジニは暴動を起こし、キプチャク汗国の公使を壊滅させ、その結果、1377年に報復を受け都市は灰塵に帰し、1378年と1408年にも汗国の侵攻を受けます。1392年にヴァシーリー1世のモスクワ公国に吸収されますが、東方に対する拠点として重視され、1444年のウルグ=ムハメッドの侵攻では城砦の外側を占領されるに及び、城砦の内部は丸半年持ちこたえましたが、翌年春には兵糧が尽き、夜に住民自ら都市を焼き退去しました。 1505年、城砦は再びムハメッド=エミンの1ヶ月に及ぶ包囲に落ちますが、捕虜だったリトアニア人部隊が助っ人となり砲撃し、汗軍はパニックの中に退却しました。リトアニア人の捕虜は自由の身となりましたが、多くはニジニを後にせず、ここを郷里としたと言伝えられています。 当初は木造だった城砦の各塔は16世紀には相次いで石レンガ造りに改築され、より強固な要塞へと姿をかえていきました。これが現在のクレムリンです。 1598年のリューリック朝断絶に続く17世紀初頭にかけてのロシアの大動乱時代に入り、1610年偽ドミトリー2世を擁立するポーランド軍に首都モスクワが占領されるに及び、ニジニ・ノヴゴロドの肉屋クジマ・ミーニンはここで義勇軍を組織し、ポジャルスキー公の指揮下に反撃し、1612年モスクワを解放しました。 ロマノフ朝帝政ロシアの時代には一大商業、物流の拠点として大発展し、ロシアの頭=ぺテルブルグ、ロシアの心=モスクワ、ロシアの懐=ニジニ・ノヴゴロド(同時期の日本の江戸、京、大坂を連想すると分り易い)とまで言われるようになりました。1817年からはロシア革命直後までは毎年夏に「ヤールマルカ」とよばれた大規模な交易定期市が開催され、正にロシアの物流の窓として隆盛を極めました。 そんなニジニ・ノヴゴロドでしたが、ソ連時代に入り工業都市、軍需産業都市となり、外国との一切の交流を断ち切られた「閉鎖都市」となり様相は一変します。市名もこの市出身の革命派の文豪マキシム・ゴーリキーに因んで「ゴーリキー市」と改称させられました。 1941年に始まる独ソ戦では、モスクワ以西の地域がドイツ軍に侵攻されるに及び、ゴーリキー市などのモスクワの背後に位置する地域は軍需産業の要衝となり、以降は完全に「外国人立入禁止都市」となりました。ブレジネフ時代に反体制派の核物理学者サハロフ博士がこの市に流刑されたのは外国人と接触が出来ないようにするためだったそうです。 ペレストロイカの時代に入るやソ連解体を待たずに市名はもとのニジニ・ノヴゴロドに戻し、外国人にも解放された今日、再び古き黄金のロシア時代のニジニへと再スタートを切りました。 |
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