ニジェガローツキ-・ドヴォ-ル (トップページ)ニジニ・ノヴゴロド紹介ニジニ・ノヴゴロド州の人口||

大ポクロフスカヤ
(バリシャーヤ・パクロフスカヤ)通りにて

【ミーニン通りから上ヴォルガ河岸通りへ】
1996年2月3日、この日の朝は大変よい天気で、雲ひとつない快晴。気温は氷点下15度ほどだったと記憶するが、そういった寒さを忘れさせるように日差しが眩しく、まさに「散策日和」であった。
ミーニン通り ул. Минина は、ヴォルガ河に平行して東西に伸びる街路で、西はクレムリン Нижегородский Кремль に端を発し、東をセンナヤ広場 пл. Сенная 広場までの1.8kmを結び、バスと路線タクシーがこの通りを運行しているが、道幅は片側1車線の2車線と、それほど広いものではない。
帝政時代には「ジューコフスカヤ通り」 ул. Жуковская と呼ばれていたが、後(おそらくソ連時代)に現在の名称に改められた。「ミーニン」とは、元はニジニ・ノヴゴロド肉屋で、1612年にモスクワをポーランド軍から解放した「クジマ・ミーニン公」 Кузьма Минин (コジマ・ミーニン Козьма Минин とも言う。「ミーニン・クジマ・ミーニチ」 Минин Кузьма Минич と書かれることが多い)に因んだもので、ニジニ・ノヴゴロドだけではなく、ロシア全体の英雄として知られている。

この通りに面する言語大学は、東のセンナヤ広場に近く、クレムリンまでは少し距離がある。
国際部長に案内され、大学を出て西へ歩く。この辺りは静かな文教街といった趣である。学舎にそって少し行くと南北の街路「プロヴィアンツカヤ通り」 ул. Провиантская との十字路に出る。通りを挟んで斜め向かいには、ニジニノヴゴロド工科大学がある。

ミーニン通り
センナヤ広場方面より

上ヴォルガ河岸通り
ホテルやレストランもあり、市民の散歩道でもある

この十字路にはキオスク киоск と呼ばれる売店が幾つか並び、飲料や菓子、タバコなどを売っていて、文教街らしく、学生がよく利用している。また、この周辺にパン屋や小さな食料品店があり、ニジニでの寮生活には欠かせないぐらいにお世話になった。
さて、国際部長に案内されるままにプロヴィアンツカヤ通りを北に、つまりヴォルガに向かって曲がった。ニジニを代表するヴォルガを見下ろす絶景の「上ヴォルガ河岸通り」 Верхневолжская набережная はすぐ目の前である。
上ヴォルガ河岸通りに出ると、一気に視界が広がった。今いる所はクレムリンに続く広い台地の上に広がる市街地であるが、この河岸通りは台地の一番北の端を東西に走り、ミーニン通りと同じくクレムリンとセンナヤ広場を結んでいる。但しこの通りは歩行者専用道路である。この河岸通りの北側は、台地の下を走る「下ヴォルガ河岸通り」 Нижневолжская набережная への急斜面である。下ヴォルガ河岸通りの向こうはヴォルガの水面であるが、2月の今は当然のように一面氷結している。
上ヴォルガ河岸通りに立つと、ヴォルガから北に広がる大地を一望する正に絶景である。国際部長はヨーロッパ100景の一つに数えられるような説明をしていたが、それも頷ける。

上ヴォルガ河岸通りより北、ヴォルガを望む
対岸はガラス工芸の街、ボル市

上ヴォルガ河岸通りから西を望む
ヴォルガ河とオカ川の合流点付近が見える

オカ川の東でヴォルガ河の南側は、今いるところもそうだが台地が断続的に続き、起伏のある地形であるが、ヴォルガ河の北に広がる大地には起伏といったものがない。対岸にガラス工芸の街で知られるボル市 г. Бор がよく見えるが、その向こうは果てしない一面の平原である。その殆どが森林地帯のようだが、それが地平線まで続いており、神戸のような海に望むところから来た私には「樹海」というよりも、青々した「海」そのものに見える。
さて、これから上ヴォルガ河岸通りを西へ歩き、右手にヴォルガ、左手にホテル等が並ぶ街並みを見ながら、クレムリンの「ゲオルギエフスカヤ塔」 Георгиевская башня を正面に都心へと向かう。後に知り合った市民から19世紀末のニジニを映した写真集を譲り受けたが、光景は100年前のそれと全く変わっていない。展望だけでなく、この街一帯が見事な「歴史景観地区」の様相を呈している。
途中に「オクチャブリスカヤ・ホテル」 Гостиница Октябрьская の向かいにある「アメリカン・レストラン」に立ち寄り、ここに来ればそこそこの食にあり付けるといったような説明であったが、メニューにある価格を見ると、確かに円に換算して考えれば、幾分日本より安いような気もするが、一般のロシア人にとってはかなりの高値のようである。私も最初のうちは頻繁に通っていたが、ニジニでの生活に慣れてくるうちに安い食堂を利用するようになり、次第に行かなくなった。今は無職の身である。贅沢は出来ない。

【ピスクノフ通りを経て都心へ】
上ヴォルガ河岸通りをまっすぐに進むと「ミーニンとポジャルスキー広場」を経て、クレムリンに行き着くのだが、改修中の博物館の手前の三叉路を左(南)へ折れ、「ピスクノフ通り」 ул. Пискунова を歩く。
この通りはクレムリンを500〜200m離れて囲むように半円状に結ぶ通りである。
ロシアの古い都市によく見られる構造は、城塞(クレムリン)を拠点に放射状の街路が各方向に延び、それらをクレムリンを中心とした同心円状のいくつもの環状線がクモの巣の様に結んでいるといったものがある。モスクワなどはその典型である。
ニジニ・ノヴゴロドの場合はクレムリンの北側はヴォルガに下る絶壁を成し、そういった地形状の制約のために完全な環状道路という形にはなっていないが、地図を見れば幾つかの道路が円弧を描いているのが分る。このピスクノフ通りもその一つである。

この通りを進むと、ミーニン通り、大ペチョールスカヤ通り ул. Большая Печёрская を越えて、次のウリャノフ通り ул. Ульянова の角に大きなスーパーマーケット「ニジニノヴゴロド・ウニヴェルサム」 Нижегородский Универсам があり、案内がてら中に立ち寄ってくれた。
肉類、野菜類、パンなどの食料品が主だが、文具、書籍、化粧品、テレビなどの日用品が売られていた。寮暮らしをしていく上で、大体の日常必需品はここで揃いそうである。
この辺りから銀行や商店が並び、路上のキオスクも増えて、都心に近づいていることを実感する。
「ウニヴェルサム」を出て、そのままピスクノフ通りを都心へと向かう。
重々しい石造りの古い建物が続く。しばらくするとロシアによくある「ルイノック」 Рынок と呼ばれる屋外マーケットが左に見えてきた。よく日本の旅行パンフレットの予定表などに「自由市場で買物」と書いているが、だいたいはこういった所で買い物をするようである。
ここは100件ほどはありそうな売店の集合で、近くにある広場「チョールヌイ・プルート」 Чёрный Пруд の名から、「ルイノック・チョールヌイ・プルート」と呼ばれている。全く関係はないのだが、「チョールヌイ・ルイノック」と言えば「闇市場」のことで、無関係とは解りながらも「胡散臭い名前」だと感じてしまった。
ここで売られているのは、衣料品が主で連日賑わっていた。売り子の皆さんも結構商売上手に思えた。

ピスクノフ通り
前方に少し見える木立は「チョールヌイ・プルート」
このチョールヌイ・プルートという地名は、もともと「チョールヌイ」 Чёрный (黒い)という名の池(ロシア語でプルート пруд )があり、1769年の市街地図にはっきりと表記され、前出の19世紀末の写真集にもこの池の写真がある。今では埋め立てられ、広場や自由市場として利用されているといったところだろうか。
なお、この広場と自由市場の間にはニジニの市街電車の拠点の一つ、「チョールヌイ・プルート停留所」がある。ここには主に鉄道駅前の「モスクワ駅」 Московский вокзал とを結ぶ1号線と、クレムリン西方のニジニノヴゴロド区の市街地を環状線で運行する2号線の始発点になっている。
特に2号線は寮のある大ペチョールスカヤ通りと繁華街・パクロフカを結んで運行しており、大変お世話になった路線である。
今になって思い出せば、国際部長はどうやらこれから始まる寮生活に不自由のないように、親切にも食事や日用品が調達できる場所を選んで案内してくれていたようである。
チョールヌイ・プルートを過ぎ、ピスクノフ通りをそのまま進む。通りは既に南から西に曲がっている。
電器店などの商店や、喫茶店、食堂が並ぶ「アレクセーエフスカヤ通り」 ул. Алексеевская との交差点に差し掛かる。そのままピスクノフ通りを進むとすぐにニジニ第一の繁華街・パクロフカに出るのだが、ここは寄り道で右(北)に曲がり、アレクセーエフスカヤ通りを歩く。わずか200mでこの通りはクレムリンに続くメイン広場「ミーニンとポジャルスキー広場」 пл. Минина и Пожарского に行き当たる。
「ミーニンとポジャルスキー広場」はニジニの都心を成す広場である。古く帝政ロシア時代には「ブラゴヴェシチェンスカヤ広場」 Благовещенская пл. と呼ばれていた。ミーニンとは前出のミーニン通りの由来となったクジマ・ミーニン公。一方のポジャルスキーは、「ポジャルスキー・ドミトリー・ミハイロヴィッチ」 Пожарский Дмитрий Михайлович と言う大公で、1612年ミーニン公と共に義勇軍を組織し、ポーランド軍の占領下にあったモスクワを解放したロシアの英雄である。余談だがモスクワの赤の広場にある聖ワシリー聖堂の前には「ミーニンとポジャルスキー像」 Памятник Минину и Пожарскому という青銅の彫像が建立されている。
ニジニ・ノヴゴロドでは、この広場を専ら「ミーニン広場(プローシャチ・ミーニナ)」と呼んでいる。「ミーニンとポジャルスキー広場」が正式な名称だが、そう呼ぶ人を聞いた事がない。裏を返せば、それだけこの広場が市民の生活に親しまれている証左であろう。
ただ、「広場」といっても別に娯楽施設のようなものはない。道端で花売りの出店が並んでいるのと、一角にこじんまりした並木広場が整備され、そこにカフェのような店がある程度だ。また、「広場」の大部分は広い路上にあたり、そこがバスターミナルやトロリーバスの始点の役目を果たしている。

賑わうミーニンとポジャルスキー広場
左に聳えるのはクレムリンの主塔
ドミトロフスカヤ塔
Дмитровкая башня

ミーニンとポジャルスキー広場
アレクセーエフスカヤ通りから望む

ニジニ・ノヴゴロドのクレムリンに続く台地上の市街は、この「ミーニン広場」から放射状に伸びる街路がメインストリートの役目を果たしている。「広場」は南北に長く、北端は東へ向かう上ヴォルガ河岸通りに続き、南端は南へ向かうアレクセーエフスカヤ通りとパクロフカ街に続く。
アレクセーエフスカヤ通りを出て、「広場」の南端をほんの数十歩行くと「パクロフカ」 Покровка の愛称で呼ばれる、ニジニ随一の繁華街「大ポクロフスカヤ通り」 ул. Большая Покровская の入り口に出る。
「大ポクロフスカヤ通り」はニジニの歴史ある街路の一つで、北をミーニン広場に発し、南はマクシム・ゴーリキー広場 пл. Максима Горького を経て、リャドフ広場 пл. Лядова に至る全長2.3kmの街路であるが、そのうちマクシム・ゴーリキー広場までの1.4kmが「パクロフカ」と呼ばれる商店街を形成している。ソビエト時代には「スヴェルドロフ通り」 ул. Свердлова と呼ばれていたが、今では元の名称に戻った。
この通りはあらゆる商店やレストランが軒を連ね、劇場や銀行などもある。19世紀の写真そのままの建物も数多く、味のある雰囲気を醸し出す街の景観を大事にしているのがよく分る。19世紀の写真との違いは、当時はこの通りに路面電車が走っているが、今では撤去され歩行者天国(ミーニン広場―マキシム・ゴーリキー広場間)となっているぐらいである。

大ポクロフスカヤ通りの賑わい
 

大ポクロフスカヤからミーニン広場方面を望む
 
さて、大ポクロフスカヤ通りの景観に見取られながら、幾つかの商店を眺めている間に、いつの間にかチョールヌイ・プルートから続くピクスノフ通りとの十字路に出た。ここで国際部長の案内は終わり、氏は帰宅するという。
早朝の出迎えから続いて、ニジニの景観を楽しみながら今後の生活に欠かせない場所の数々を教えて頂き、心より感謝である。

ここからピクスノフ通りを戻り、「チョールヌイ・プルート」から市街電車2号線に乗り、3つ目の停留所「トルドヴァヤ」 Трудовая か4つ目の「センナヤ」で降りるようにとの説明のようだったが、何分にも数時間前にニジニに着いたばかりである。右も左も分らない。市街電車の車窓から街の景色が見えれば問題はないが、氷点下10度以下の気温では、窓も凍て付き街の様子は分らないに違いない。違う系統の路線に乗ってしまえばそれこそパニックである。
ここは元来た道を辿って、当座の食料でも調達しながら歩いて寮に戻るほうが賢明である。
大ポクロフスカヤ通りを最後まで歩きたかったが、後日に譲ることとしよう。

こうして、私のニジニ・ノヴゴロドでの第一歩は感動(と不安)のうちに幕となった。

    

このページのトップへ▲