ニジェガローツキ-・ドヴォ-ル (トップページ)|ニジニ・ノヴゴロド紹介|ニジニ・ノヴゴロド州の人口||
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下ヴォルガ河岸通りから見たクレムリン |
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クレムリン12塔のうち、左からイヴァノフスカヤ、チャソヴァヤ、セーヴェルナヤの3塔が見える |
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【上ヴォルガ河岸通りからチカロフ像へ】 |
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ニジニ・ノヴゴロドの絶好の散歩コースには、ヴォルガへの展望の良い「上ヴォルガ河岸通り」 Верхневолжская набережная 、ニジニの歴史を代表する都市のランドマークである「クレムリン(ニジニノヴゴロド城塞)」 Нижегородский Кремль 、そしてショッピングストリート「大ポクロフスカヤ通り」 Большая Покровская улица が挙げられるが、有難いことにこれらのコースは実は繋がっていて、一度に歩き通すことが出来る。 幸運にも、私の住んでいた言語大学の学生寮からは、上ヴォルガ河岸通まで徒歩5分とかからないところに位置していたので、このコースをよく歩いたものである。 |
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さて、上ヴォルガ河岸通りを右手にヴォルガの絶景を眺め西へ向かう。先の国際部長の案内では「ピスクノフ通り」 ул. Пискунова との三叉路でこの通りを離れたが、ここでは上ヴォルガ河岸通りを西端まで歩く。 ピスクノフ通りとの三叉路に建つ博物館は当時は改修工事中で見ることが出来なかった。ガイド本には英訳で“The Ethnographical Museum of N.Novgorod region”と書かれていたが、ロシア語の名称を直訳すれば「歴史建築秘蔵博物館」 Историко-архитектурный музей-заповедник といったところだろうか。内部を拝見できなかったのが残念である。 |
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改修工事中の博物館 The Ethnographical Museum of N.Novgorod region |
上ヴォルガ河岸通りとクレムリン 中央の塔はクレムリン最北東端のゲオルギエフスカヤ塔 塔の前にチカロフ像が見える |
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ここから西へそのまま進むとクレムリンの「ゲオルギエフスカヤ塔」 Георгиевская башня が目の前に迫ってくる。通りには「ヴォルシースキー・オートコス」 Волжский Откос という大きなホテルが建つ。「ゲオルギエフスカヤ塔」を前にして上ヴォルガ河岸通りの西端は「ミーニンとポジャルスキー広場」の北端に繋がっている。ここにはチカルフ像 Памятник Валерию Чкалову が建っている。 チカロフ氏(1904〜1938) Чкалов Валерий Павлович は、ニジニ・ノヴゴロドに近いヴァシリョーヴォ村(現・チカロフスク市)出身のパイロットで、1936年6月20〜22日にかけてモスクワから北極海上空を経て、ペトロパヴロフスク=カムチャツキーからアムール河口のウッド島(現・チカロフ島)まで9374kmの無着陸飛行に成功し、翌1937年6月18〜20日には、モスクワから北極点を経由して米大陸バンクーバーまで8504kmの無着陸飛行を実現した郷土の誇る「ソ連の英雄」 Герой Советского Союза である。 |
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上ヴォルガ河岸通りとゲオルギエフスキー坂 ゲオルギエフスカヤ塔前より望む。 中央の建物は ホテル「ヴォルシスキー・オートコス」Волжский Откос |
チカロフ像とゲオルギエフスカヤ塔 |
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このチカロフ像のあたりで、今いる台地上の市街地からヴォルガに直接面する台地下の街路に抜ける2つのコースが分岐する。 そのうち、一つは上ヴォルガ河岸通りに平行するかたちで東へ降りる「ゲオルギエフスキー坂」 Георгиевский съезд 、もう一つは「チカロフ階段」 Чкаловская лестница と呼ばれている2筋の階段が数字の「8」の字形に模られた見事なデザインの遊歩道があるのだが、私の居た当時はこの階段は補修工事中で閉鎖されていた。 どちらも、台地下の「下ヴォルガ河岸通り」 Нижневолжская набережная へ降りることが出来る。 |
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【クレムリン城塞の中へ】 |
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チカロフ像はクレムリンの「塔」 башня の中で、最北東端に位置する「ゲオルギエフスカヤ塔」に隣接する位置にある。ここからクレムリン見物が始まるのだが、「ミーニンとポジャルスキー広場」に隣接する「塔」は4つあり、他は南へ順に「ポロホヴァヤ塔」「ドミトロフスカヤ塔」「クラドヴァヤ塔」と続く。 そして、クレムリン内部への入り口は「ゲオルギエフスカヤ」と「ポロホヴァヤ」の間に一つ、主塔「ドミトロフスカヤ」に一つ、「クラドヴァヤ」の脇に一つの3箇所あるが、ここでは交通ターミナルとしての「ミーニン広場」の雑踏を避けて、「ゲオルギエフスカヤ」と「ポロホヴァヤ」の間にある入り口から入ることにする。 |
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ここでニジニ・ノヴゴロドの「クレムリン」について、若干述べておきたい。 ニジニ・ノヴゴロドの都市の歴史は、この「クレムリン」の建設に始まっている。1221年、ヴラジーミル大公ユーリー・フセヴォロドヴィッチによりヴォルガ中下流域のモルドヴァ人等の異民族に対するルーシ東端の防衛拠点として木造で建設されたのが始まりだが、ニジニを含むヴラジーミル公国は後にモンゴル軍に蹂躙され滅亡する。 モンゴル=タタール人支配が緩やかになり、一時期「ニジニ・ノヴゴロド=スズダリ公国」 Нижегородско-Суздальское княжество として独立した時代の1372〜1374年にかけて、ニジニで始めての石の要塞として「ドミトロフスカヤ塔」が建設された。ただし、この時の「ドミトロフスカヤ塔」は現在のものではなく、今に残る石造りのニジニ・ノヴゴロド城塞(クレムリン)の各塔の建設は、1500年に台地の下に位置する「イヴァノフスカヤ塔」を建設したのに始まり、残りの部分は1508年から1515年に至る短期間に完成を見ている。この時期はモンゴル=タタールの勢力が駆逐されてまだ間もないころだが、「ニジニ・ノヴゴロド=スズダリ公国」もまた既になく、モスクワ大公国の時代である。 城塞は台地の上から下にかけて跨った地形の要害を利用して建設され、現在では、13あった「塔」のうち、12が現存している。 |
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さて、(前置きが長くなったが)クレムリンの内部へ入る。 「ゲオルギエフスカヤ塔」と「ポロホヴァヤ塔」をつなぐ城壁に開いたドーム状の入り口をくぐると、「知事館」 Дом губернатора と呼ばれる4階建ての重厚な建物が目に入る。この建物は絵画博物館としても使用されているが、基本的にクレムリン内部の建物は官公庁のものである。 クレムリンの城塞そのものも、歴史的建物として公開されており、ちょうど日本のお城見学のようである。 城塞の内側に沿って街路があり、ソ連時代のニジニ・ノヴゴロド(旧・ゴーリキー)は軍需都市としての側面が強く、第二次大戦では、ドイツ軍の手の届かない所に位置したゴーリキーの兵器工場で生産された「T-34」とか「カチューシャ」とかいった当時の戦車や戦闘機などの兵器が陳列されている。子供達の絶好の遊び場でもある。 主塔「ドミトロフスカヤ塔」の入り口からは、クレムリンを貫いて台地下の入り口のある「イヴァノフスカヤ塔」に至る「イヴァノフスキー坂」 Ивановский съезд という坂に通じる街路があるが、一般車両の通行は認められていないようである。 散歩コースとしてはイヴァノフスキー坂を下らずに、そのまま進む。やがて街路は北へと曲がり、両側には重厚な官公庁らしい建物が続くが、その先に緑の尖塔を持つ美しい寺院が見える。「アルハンゲリスキー寺院」 Архангельский собор である。 この寺院はニジニ・ノヴゴロド建設間もない1227年に建てられたのを起源とするが後に破壊され、現在のものは1631年に廃墟に残った基礎の上に建設されたものである。寺院の再建は1612年のクジマ・ミーニン率いるニジニノヴゴロド義勇軍の対ポーランド軍モスクワ解放戦の勝利に対して贈られたものである。 |
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ミーニン通りに面する城塞の内部 後方に見える塔はクラドヴァヤとニコリスカヤ |
アルハンゲリスキー寺院 背後の建物には音楽コンサートホールもある |
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アルハンゲリスキー寺院の脇を通り過ぎると、前方にヴォルガの展望が開ける。ここは地形上、上ヴォルガ河岸通りに続く台地の絶壁になっている。この辺りはクレムリンの北辺に当るが、ゲオルギエフスカヤ塔から西へ続く城壁は絶壁の下に延びている。 アルハンゲリスキー寺院から北は台地の縁が遊歩道として整備されており、市民の憩いの場でもある。この遊歩道は、ミーニン通りに面する主塔「ドミトロフスカヤ塔」から見れば丁度反対側に当る、「チャソヴァヤ塔」と「セーヴェルナヤ塔」の間に設けられた小さな「抜け口」へ通じており、そこを抜ければ今度はクレムリン西辺の外側を左に「セーヴェルナヤ塔」「タイニツカヤ塔」「コロムィスロフ塔」「ニコリスカヤ塔」を、右に台地下の市街と台地上の都心を結ぶ「ゼレンスキー坂」 Зеленский съезд 眺めながらニジニの歴史を感じながら南へ進む。 「ニコリスカヤ塔」の角を曲がれば、ミーニン広場の南端と繁華街「大ポクロフスカヤ通り」は目の前である。 |
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【大ポクロフスカヤ通りをマクシム・ゴーリキー広場へ】 |
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「パクロフカ」 Покровка の愛称で呼ばれる、ニジニ随一の繁華街「大ポクロフスカヤ通り」のミーニン広場側の入り口付近は、先の国際部長に案内された所だが、ここでは「パクロフカ」を歩き通し、「マクシム・ゴーリキー広場」 пл. Максима Горького へ出ることにする。 古い建物を利用したいろいろな種類の商店やレストランを眺めながら、「大ポクロフスカヤ通り」を南に進む。この道は歩行者天国となっており、南へは緩い上り坂である。少し行くとピクスノフ通りとの十字路に出るが、十字路の雰囲気はない。というのは、右に一際目立つ「マクシム・ゴーリキー記念ドラマ劇場」 Нижегородский академический театр драмы им. М. Горького が建ち、ピクスノフ通りを半ば塞ぐ格好になっているからである。 この「ドラマ劇場」の建物は歴史あるもので、1896年の完成である。このドラマ劇場は市民に人気があり、連日賑わっている。俳優さんたちの常連ファンも多いようである。かく言う私も足繁く通った一人である。 |
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マクシム・ゴーリキー記念ドラマ劇場 背後の建物は、ホテル「モスクワ」 Москва |
大ポクロフスカヤ停車場から南を望む 背後に見える尖塔は国立銀行のもの |
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「ドラマ劇場」を後に、先へ少し行くと市街電車が行き交うのが見える。大ポクロフスカヤ通りと交差する「十月通り」 ул. Октябрьская を市街電車の1号線、2号線が走り、交差点に沿って「大ポクロフスカヤ停車場」が設定されている。ここから1号線に乗れば、オカ川の向こうにある鉄道駅前の「モスクワ駅」 Московский вокзал へ乗り換えなしで行く事ができるが、反対方面行きに乗ると次の「チョールヌイ・プルート」 Чёрный Пруд が終点である。もう一つの2号線は「十月通り」、「イリインスカヤ通り」 ул. Ильинская 、「ベリンスキー通り」 ул. Белинского 、「大ペチョルスカヤ通り」 ул. Большая Печёрская 、「ピクスノフ通り」を経て都心に隣接する市街地を一周する環状線である。 |
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この交差点の向こうには、また一際異彩を放つ荘厳な建物が建っている。1913年に建てられた「国立銀行」 Государстовенный Банк である。 外国人である私には中に入ることは出来ないが、破れて使い物にならなくなった紙幣を替えに初めて中に入った学生の談によれば、内部は眩いばかりに彩られた内装の大ホールとなっているそうである。 それにしても、前に植樹されている樅の木と、銀行の外観が雪に覆われている姿はまさに幻想的である。表現としては幼いが「クリスマスケーキに乗る砂糖菓子」というか、まるで御伽噺の世界である。 |
国立銀行と大ポクロフスカヤ通り |
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さて、この国立銀行の辺りが丁度「ミーニン広場」と「マクシム・ゴーリキー広場」を結ぶ大ポクロフスカヤの中間点になるが、これから先も同じように商店が続くが、その密集度合いはやや疎になる。その合間を縫うように民芸品の露店や、地元の絵画の売り子さんが通りに作品を広げている。ニジニ・ノヴゴロドの街並みやヴォルガを描いたものが多く、旅の記念に購入するのもよい。 絵画売りと言えば、外国人観光客に相場より高く売りつける商法をよく耳にするが、当時のニジニの場合は外国からの観光客が極端に少ないせいか、多くの露店では絵画に値札がついていた。特に値をつり上げられる心配は無さそうである。(今ではどうかな??) 面白いのは白樺の樹皮をキャンパスに仕立てて、自然の白樺の表相を巧く絵画の一部のように仕上げたものが結構売られていた。いかにも白樺の国である。 |
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ご当地の民芸品と言えば、何といっても「ホフロマ」 Хохлома が有名である。「ホフロマ」というのは、ニジニ・ノヴゴロドから北へ70kmのところにある村の名前だが、この村で今から300年ほど前に生まれた「ホフロマ民芸彩色図柄」 Хохломская роспись は鮮やかな赤、黒、金で彩られたロシアを代表する民族図柄である。一般に「ホフロマ」といえば、木製の食器や装飾品にこの「ホフロマ塗り」を施した民芸品を言う。 大ポクロフスカヤ通りには、まるで競うように「ホフロマ塗り」の特産品の露店が出ている。さすがは本場である。食器やスプーン、スープ入れから菓子入れ、壷やお盆などの「ホフロマ」がセットとして売られており、木製のため、重厚で華麗なデザインの見た目より実際にははるかに軽い。 この通りを更に先に進むと、右手に工芸品の専門店がある。「工芸作品」といった意味合いの「フドージェストヴェンヌィエ・プラムィスルィ」 Художественные промыслы という名のお店には、ホフロマのみならず、ロシア各地の民芸品が売られている。 |
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さて、そろそろ繁華街「パクロフカ」も終点に近づいてきた。 突き当たりに「マクシム・ゴーリキー広場」 пл. Максима Горького が見えてくると、「小パクロフスカヤ通り」 Малая Покровская ул. との交差点に差しかかる。「歩行者天国」はここまでである。そして、左に中央郵便局があり、続いて中央電話局となっている。電話局の前は「マクシム・ゴーリキー広場」である。 ニジニ在住当時は随分とこの電話局にはお世話になった。実は当時の通信事情は一般の電話は市内通話のみで、国際電話は言うに及ばず、市外通話さえも電話局に出向き、そこにある電話室から電話をかけるのが常であった。勿論、企業にあってはそれでは仕事にならないので、国際電話までかけられるように契約している筈であるが、一般家庭や寮の電話は旧態依然であった。 まず電話室の受付に通話に適当な料金を予め支払い、告げられた番号の電話ボックスに入り電話をかける。通話が終われば再び受付に行くと通話秒数から料金が計算され、おつりを受け取るシステムであった。もちろん、予め支払った料金が少なければ、相応の秒数に達すると一方的に断線となる。 |
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マクシム・ゴーリキー広場から見た電話局 左は大ポクロフスカヤ通り |
広場とマクシム・ゴーリキー像 |
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最後にマクシム・ゴーリキー広場であるが、これが馴れないとちょっとした「難所」である。 実はこの広場は自動車道路内の「川中島」のような存在である。四方を4車線ほどの道路が囲み、結構交通量が多く、その割にスピードを出す車が多い。路上に横断歩道が書かれているが、運転手はお構いなしである。 たまに現れる車の「切れ目」のうちに素早く渡る必要があるのだが、それでもお年寄が何事もないように渡っている姿をしばしば見かける。道路横断歴50余年のベテランといったところだろうか。 広場には有名な作家、マクシム・ゴーリキー氏の像が建っている他は、何の変哲もない広場である。ゴーリキー氏は作家、劇作家、革命派の社会活動家として知られ、1868年ニジニ・ノヴゴロドの生まれで、本名をペシコフ・アレクセイ・マクシモヴィッチ Пешков Алексей Максимович と言い、1936年にモスクワで急死するが、死因は現在でも謎とされ、毒殺説もある。 作家として初めて「マクシム・ゴーリキー」のペンメームを使用したのは1892年にチフリス(現在のトビリシ )で、この「ゴーリキー」 Горький はロシア語で「辛い(つらい)」「痛ましい」「哀れな」という意味(他に味覚として「苦い」など)があり、自身の半生を 振り返っての命名とされている。 氏の代表的な作品、戯曲「どん底」はニジニ・ノヴゴロドのクレムリンの丘の下にある貧民街の簡易宿泊所を舞台としているようである。 スターリン時代に故郷ニジニ・ノヴゴロドを彼の名に因んで改称する案が上がると、不幸に因む名だけにゴーリキー氏は猛反対したものの、聞き入れられず、1932年に市名・州名とも 「ゴーリキー」と改名される。 ソ連末年の1991年には市・州ともには元の「ニジニ・ノヴゴロド」に戻るが、市内にはこの広場の他、この広場の両側に「マクシム・ゴーリキー通り」 ул. Максима Горького という名も残っている。 |
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「マクシム・ゴーリキー広場」そのものは単なる「広場」であるが、この広場を取り巻く自動車道の周りは電器店、スーパーマーケット、レコード店などの比較的大きな店舗が連なる商業核を形成している。1997年に開店したマクドナルドのニジニノヴゴロド1号店もこの「広場」に面している。 |
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さて、ニジニの街案内に代えて「はじめてのニジニ・ノヴゴロド」と題して稿を起したものの、馴れない物書きにて単純に地名を陳列しただけの様な拙文の山を築き、お見苦しい限りである。 他にもニジニ・ノヴゴロドの見所は沢山あるのだが、また機会があれば別稿を起こすとして、今回はこの「マクシム・ゴーリキー広場」にて、街案内を一先ず「幕」 КОНЕЦ とさせて頂きたい。 |
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今回取り上げたコース、チカロフ像からマクシム・ゴーリキー広場までは約3.5キロある。街の散策には丁度良い距離である。現地に行かれる機会があれば、是非、街歩きを堪能して頂きたい。 「マクシム・ゴーリキー広場」からの帰路は、元来た大ポクロフスカヤ通りを戻り、停留所から市街電車を利用するのも良い。また、郵便局のある「小ポクロフスカヤ通り」を西へ少し行けば、すぐに市街電車2号「環状線」 городское кольцо の通る「イリインスカヤ通り」に出るが、この近くに「マスリャコフ通り」 ул. Маслкова という名の停留所があり、ここから市街電車を利用する手もある。 なお、鉄道駅前の地下鉄ターミナル駅「モスコフスカヤ」 Московская からオカ川 река Окаを越えて「マクシム・ゴーリキー広場」への地下鉄延長工事は計画されて久しく、96年当時ではまだ開通は遠い夢であり、市街電車を乗り継いで数十分もかかっていたが、ようやく2012年11月4日に「ゴーリコフスカヤ」 Горьковская 駅まで開通し、「モスコフスカヤ」から1駅で行けるようになった。 |
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最後に、見苦しい拙文に長々とお付き合い下さった皆様に深く感謝申し上げます。 |
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