フォトギャラリー もくじサハリン州の人口ニジェガローツキー・ドヴォール
旧中央国境前線(半田)に残るトーチカ。
1994年7月30日撮影

1989年から94年までの3回のサハリンの旅で目にした、旧樺太に残る日本統治時代の面影の数々。日本人にとって極限の北辺でもあった大地を開拓すべく、先人達の夢とロマンと野望が渦巻いた樺太。そんな歴史の「生き証人」の姿などを紹介します。

樺太庁博物館(サハリン郷土博物館)

昭和十二年に建設された樺太の名建築「樺太庁博物館」は戦後のソ連統治下でも「サハリン州立郷土博物館」として親しまれており、市民の自慢の建物。
館内にはサハリン先住民族文化紹介から日本統治時代の遺品、革命期の北サハリンの動向など、展示品は多岐に渡る。
1994年7月31日撮影
博物館に展示される旧50度国境の境界石

「サハリン州立郷土博物館」の日本統治時代のコーナーに展示されている北緯50度線の旧日露国境線に設置されていた国境の境界標石のレプリカ。写真は天測点として国境線に4箇所設置されていたものの一つ、第三境界標石で国境線中央の半田にあった。
南面は中央に大きな菊の紋章があり、その上に「大日本帝国」、下に「境界」の文字。
北面は中央に双頭の鷲があり、その上に「РОССIЯ」、下に「1906 ГРАНИЦА
1994年7月31日撮影
面影残す大泊港桟橋

今もコルサコフ(大泊)港に残る旧稚内航路の桟橋で現在では「南埠頭」と呼ばれる。
日本統治時代には先端に国鉄の「大泊港駅」があった。現在でも線路は残り、貨物の陸揚げに活用されている様子で、埠頭には木材が山積みされていた。
1989年8月11日撮影
日露戦争で日本軍が上陸した女麗浜

日露戦争末期に展開された樺太占領において、明治三十八年七月七日、日本軍の先遣部隊が上陸した亜庭湾奥の女麗浜はコルサコフの東10キロに位置。平成元年時点での周囲の状況は戦争写真に見るものとほとんど変らない。部隊は七月九日コルサコフを占領。
1989年8月11日撮影
偶然見つけた倒れた石碑

バスでコルサコフ(大泊)からオジョルスキー(長浜)へ向かう途中に時間調整のため旧女麗に停車。見晴らしの良いところを丘の上に見つけ、辺りを散策中に偶然にも発見した倒された石碑。碑文には「日露戦役樺太遠征軍上陸記念碑」とある。戦前の資料を見ると戦跡保存会が亜庭湾を見下ろす西女麗丘上に七千円の工費で大正十五年七月十日竣成、爾来毎年七月七日の上陸日には記念式が行われていたそうである。
1989年8月11日撮影
日露戦争で日本軍が上陸した女麗は現在のロシア名でプリゴロドノエ Пригородное と言い,21世紀の今日では「サハリン2プロジェクト」の液化天然ガス(LNG)プラントが建設されており,これらの写真を撮影した1989年当時とは様相が一変しています。

相互リンクをして頂いている秀作サイト Samovarの旅樺太と言われた時代の残像 のページには,LNGプラントの建設された現況が紹介されており,倒された「上陸記念碑」の新しい画像も添えられています。
トマリ(泊居)の旧市街地

日本海に面する樺太西海岸の街、トマリは日本時代には「泊居」と呼ばれ、ここも製紙工場の町であった。トマリの街並みは、丘の断崖に沿って鉄道が走り、これより海岸側は低地で、日本時代からの旧市街地が残る。一方線路を挟んで丘の上にはソ連式の集合住宅が建つ新市街。
1994年7月29日撮影
トマリ(泊居)の山肌に残る鳥居

トマリ(泊居)の山の中腹に2つ残る旧泊居神社の鳥居で、写真は泊居川に日本時代に架けられた「泊居大橋」より撮影。この橋の欄干には90年ごろまでは「泊居大橋・昭和十年十月竣工」の文字が残っていたそうだが、撮影時点では削り取られていた。
1994年7月29日撮影
ありし日のホルムスク駅(旧真岡駅)

同じく樺太西海岸の街、ホルムスク(真岡)に残っていた旧真岡駅。駅舎は東京の上野駅をモデルにして建設されたもので、同じく上野をモデルにした小樽駅に似ていた。建物は戦前の写真集に写るものと全く同じで、原型を留めていたが、残念にも老朽化を理由に1992年秋に解体。
1989年8月13日撮影
宝台ループ線とD51レトロ号

サハリン鉄道のハイライト「宝台ループ線」は豊原と真岡を結ぶ「豊真線」の宝台−池ノ端駅の間、急峻な西樺太山脈を超えるところに位置する。残念ながら、ソ連崩壊後に「豊真線」は廃線となり撤去。観光資源として真岡側の池ノ端までD51レトロ号を運行させ、かつての「ループ線」の麓で停車し、写真撮影のあと折り返しとなる。
1994年7月29日撮影
ユジノサハリンスク駅でのスナップ

ユジノサハリンスク駅(旧豊原駅。但し駅舎は1980年代初めに建て替えられた)で見かけた寸景。1994年当時はJR東日本が供与した「キハ58」が都市近郊路線で大活躍していた。
1994年7月31日撮影
    

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