フォトギャラリー もくじサハリン州の人口ニジェガローツキー・ドヴォール
オホーツク海岸に沿って走る旧樺太東線。
1994年7月30日撮影

前日ホルムスク北駅を出発した「ホテル列車ユーラシア号」は西海岸(間宮海峡側)の旧樺太西線を北上し、ソ連時代に建設された東海岸(オホーツク海側)への連絡横断線を経由して旧樺太東線を北上、夜明け前に50度線を突破し最初の駅オノールで折り返しとなり、旧樺太東線を南下する旅が始まりました。

北樺太最初の駅オノール

北緯50度線を未明に越え、北サハリン最初の駅オノールに着く。写真は夜明け前の朝霧漂う駅構内とホテル列車「ユーラシア号」。
1994年7月30日撮影
北緯50度線に立つモニュメント

ホテル列車はオノールを折り返し、北緯50度線で臨時停車。50度線到達記念に近くにあるソ連の戦勝記念モニュメントに案内された。
モニュメントには「北緯50度。1945年8月11日、ソビエト軍部隊はこの境界からロシア固有の領土である南サハリンへ日本侵略者からの解放を始めた。」と宣巻いている。
1994年7月30日撮影
ポベジノ駅(古屯駅) 旧日本国鉄最北の駅

日本国鉄最北の駅であった「古屯駅」は大戦末期の1944年10月15日に対ソ国境の防衛上急務であるとして開通させ設けられた。樺太の対ソ防衛戦では激戦地の一つ。写真の駅舎はソ連によって建て替えられたものと推測するが、現在の駅名「ポベジノ(勝利)」とは日本人としては複雑な気分になる。
1994年7月30日撮影
レオニドヴォ町(上敷香)の遠景

車窓から見たレオニドヴォ町(旧敷香町上敷香)。戦前は日本海軍の飛行場がある基地の町でもあった。
写真には戦車と思しき戦闘車両が並んでいるのが散見でき、戦後も基地の町かと伺える。
1994年7月30日撮影
マカロフ(知取) 旧神社通でのスナップ

樺太東海岸の街マカロフ。日本時代には「知取」と呼ばれ、炭鉱と製紙工場の街であった。1994年当時では、この街は案内役の話では極度に治安が悪化しており、団体行動を厳命された。
1994年7月30日撮影
プガチョーヴォ(馬群潭)駅

概ねオホーツク海岸を走る樺太東線だが、ヴォストーチヌイ(元泊)―ヴズモ―リエ(白浦)間は内陸の谷間を縫って走る。写真は元泊に近いプガチョーヴォ(馬群潭)駅。
1994年7月30日撮影
オホーツク海岸の黎明

ヴズモーリエ(白浦)駅構内で一夜を明かしたホテル列車「ユーラシア号」は、夜明けとともに出発。オホーツク海岸を南に走る。
写真に映る山すそにヴズモーリエの駅舎はある。
1994年7月31日撮影
スタロドゥープスコエ(栄浜)村

ホテル列車とはドリンスク(落合)駅でお別れ。
バスでオホーツク海岸の村落スタロドゥープスコエ(栄浜)へ向かう。
写真はスタロドゥープスコエの佇まい。
1994年7月31日撮影
    

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