ニジェガローツキー・ドヴォール (トップページ)|
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も く じ | ||
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ニジニ・ノヴゴロドからのフォト便り | ||
当ホームページに2004年8〜9月のニジニ・ノヴゴロドの街の写真が寄せられました。最新のニジニの様子をお楽しみ下さい。 |
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クラスヌイ・ヤル村でのひととき | ||
初秋のニジニ・ノヴゴロド州クラスヌイ・ヤル村の写真が寄せられました。村人が「ロシアで最もきれいな景色」と自慢する村です。 |
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2003年 ニジニ・ノヴゴロドの光景 | ||
2003年に現地を訪れたMishaさんより街の写真が寄せられました。 ヴォルガの雄大な眺めと古いニジニの下町の光景です。 |
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ヴォルガの都 ニジニ・ノヴゴロド | ||
語学留学で1年間滞在し、その後も度々訪れたヴォルガ河畔の大都市ニジニ・ノヴゴロド。日々の散歩コースで撮影した街のスナップ写真など。 |
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ニジニ・ノヴゴロドの雪景色 | ||
雪化粧したニジニ・ノヴゴロドの絶景を集めました。 1996年、1997年の2〜3月の街の様子です。 |
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古都ヤロスラヴリとモスクワ「赤の広場」より | ||
ニジニを拠点に出掛けたロシアを代表する古い都市、ヤロスラヴリとモスクワ。中世ルーシの歴史を感じる街です。 |
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タタルスタン寸景 | ||
イスラムのタタール人の国タタルスタン。ロシアにありながらも、ニジニの東300キロのヴォルガの大地は独特の異文化の空間でした。 |
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アムールとアンガラのほとりで | ||
1991年8月のソ連ハバロフスクとイルクーツクの船の旅。 洪水の影響で「黒龍江」の名のとおり鉛色したアムール河と、バイカル湖からの澄んだアンガラ川とは対照的でした。 |
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ウラジオストクと金角湾クルーズ | ||
「東洋のサンフランシスコ」と形容される極東ロシアの海の玄関ウラジオストク。ソ連崩壊を挟み、1991年と翌1992年に訪れた港の様子をご紹介します。 |
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サハリン開放元年 1989年の夏 | ||
1989年、国境を固く閉ざしていたサハリン南部への一般の観光旅行が解禁となりました。自然以外は日本とは何もかもが違う、ソ連統治下のサハリンの街の様子です。 |
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開放2年目のサハリン 北端オハへの旅 | ||
サハリン開放2年目となった1990年。前年より広い範囲が開放され、ユジノ=サハリンスク(豊原)周辺以外に最北の都市オハへの訪問が許されました。 |
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北緯50度へ サハリン鉄道周遊の旅・前編 | ||
1994年、JR北海道宗谷北線運輸営業所主催の第1回「サハリン鉄道周遊の旅」。ホルムスク(真岡)よりホテル列車を仕立てて旧樺太西線を北上。沿線の風景などをご紹介します。 |
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北緯50度へ サハリン鉄道周遊の旅・後編 | ||
北緯50度を越えたオノールから幌内川沿いのツンドラ地帯とオホーツク海岸の旧樺太東線を南下。オノールから栄浜までの各地の様子など。 |
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樺太にみる 「もうひとつの日本」 | ||
「豊葦原瑞穂の国」日本が心血注いだ樺太開拓。サハリンには交通インフラ等多くを樺太時代を基礎としものが残っています。先人の夢が偲ばれる樺太の残滓を写しました。 |
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ホルムスク(真岡)の大パノラマ写真 | ||
サハリン西岸の要港ホルムスク。日本統治時代には真岡と呼ばれた港町を船上からパノラマ写真を撮影しました。 1990年夏の大パノラマ写真をお楽しみ下さい。 |
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