ニジェガローツキー・ドヴォール掲示板 ヤールマルカ
 
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No.242 シラフの呟き господин Ондрей Заков [2004/05/02(日)19:35:54]
ニジェさん、ニキーチンさん、ノリリスクの鉄道に関する情報
有難うございました。ツンドラの平原で孤立した貨物専用鉄道、
うーん、アングラ趣味の琴線が揺さぶられる様な立地ですね。

>氷上がハイウエーの役割を果たし、トラック輸送が可能と想像

流石ロシア、流通もダイナミックですね。すると冬の方が案外
迅速に流通する可能性があったりして。日本でも高度経済成長
以前の頃までは、冬期に結氷を切り出し渡河の手段とする例が
少なくなかったと聞きます。狐または鼬の足跡が認められたら
結氷の肉厚度が安全基準に達したと判断していたのは、諏訪湖
でしたかね。(何やらワカサギで一杯やりたくなって来ました)

>ロシアで河川通航の持つ重要性を実感させてくれて、

という事は、主要河川の渡河手段は架橋を含めて限られがちで、
延いては河川が境界となって経済圏が成立する傾向が著しいと
いう様な事にもなるのでしょうか。日本などは、河川に対する
架橋頻度はかなり大きな方でしょうしね。

社会科の授業で取沙汰されたロシアの河川名というと「レナ」
「オビ」「エニセイ」「ドニエプル」「アムール」「ボルガ」
……… そんなところでしたかね。

BGM)
シベリウス(ロシアではないのですが)
「レンミンカイネン組曲」より「トゥオネラの白鳥」
No.243 河川と架橋 ニジェガロージェッツ [2004/05/04(火)10:03:11]
Ондрей Заков さん、おはようございます。

結氷した河川をハイウエーとして利用する件ですが、これはヤクーツク辺りのレナ河の話
として、テレビで見たと記憶しています。
この手段がノリリスクのエニセイ河で行われているかどうかは、あくまで小生の推測で、
確証はありませんので、「話半分」ということで。

: という事は、主要河川の渡河手段は架橋を含めて限られがちで、
: 延いては河川が境界となって経済圏が成立する傾向が著しいと
: いう様な事にもなるのでしょうか。日本などは、河川に対する
: 架橋頻度はかなり大きな方でしょうしね。

ロシアの架橋頻度ですか。
ロシアの広大な国土を考えると、都市間の距離は日本の比ではありませんので、当然、一
つの河川に対する架橋頻度は、小さいと考えます。
例えばヴォルガ河ですが、この河川沿いに位置する各連邦構成体の架橋本数を地図で数え
ると、(道路橋+鉄道橋)
アストラハン州 3+鉄1
ヴォルゴグラード州 1+鉄1
サラトフ州 3+鉄1
サマーラ州 1+鉄2
ウリャノフスク州 1+鉄1
タタルスタン共和国 2+鉄1
チュヴァシ、マリ=エル共和国 0
ニジニ・ノヴゴロド州 2+鉄1
イヴァノヴァ州 0
コストロマ州 1+鉄1
ヤロスラヴリ州 3+鉄2
トヴェーリ州 16以上+鉄5
トヴェーリ州は最上流ということで、ヴォルガの川幅も小さく、架橋も多いですが、それ
以外ではあまりにも少ないです。
もっとも、ヴォルガの大部分は人造湖が造られ、「川幅」というよりは「湖幅」といった
方が良いかも知れませんが。
一方、市内の例としては人口140万のニジニ・ノヴゴロド市の中央にオカ川が流れ、ざっ
と右岸3区に40万、左岸5区に100万人が暮らしますが、この河川に架る道路橋は僅か3本、
鉄道橋は街外れに1本架っているのみです。

ただ、経済圏としては、河川で区切られるような所は少ないと思います。州などの行政区
分を見ても、その殆どが両岸に跨っています。

面白い例外として、イヴァノヴォ州にヴォルガのゴーリキー人造湖を越えて左岸に一部(
ソコリスコエ地区)が食み出している部分がありましたが、この地区がソ連崩壊後、ニジ
ニ・ノヴゴロド州に帰属変更されたという例があります。これなどはヴォルガに人造湖を
造った結果、左岸地区が完全に州本体と隔てられたと言って良いでしょう。
知る限りでは、近年州界が変更された唯一の例です。
No.244 今日は風が強うございました господин Ондрей Заков [2004/05/04(火)20:03:59]
>右岸3区に40万、左岸5区に100万人が暮らしますが、

かかる状況の背景にあるのは、渡船の類が整備されている為か、
あるいは旧社会主義国ゆえに罷り通る感覚か、はてさて?

さて、近年の我が国の経済界は、経済成長が成熟期にある欧米
諸国に代わって、今後の成長が期待されると思しき、インドや
中国、ロシアなどの市場開拓が大きな命題となっておりますが、
本日、運転中に仄聞したラジオ・ニュースによれば、ビールも
又然りで、キリンはモスクワの比較的高所得の層、サッポロと
アサヒは、日本食の関心が高まりつつあるとされる極東などで
前年対比 150−200%程度の目論見を以て事業展開するとの事。

ロシアのビール消費量は、健康志向の増大からウォッカ離れが
進んだ事を受けて、日本のそれを上回っているそうです。一方
日本では、ウォッカと同じ蒸留酒である焼酎が、健康志向から
消費量を伸ばしていますが、同じ蒸留酒でこの違い、あるいは
ウォッカには割水という概念が無いのだろうか?

連休も残り一日で、焦燥感や空しさを御感じの御仁も多い事と
存じますが、私の場合は何かしら細かい仕事が入り、先月末来
完全オフが無くGWもへったくれも無い事から、ザマーミロと
意味不明の優越感に浸っています。GWの命名は映画界との事。
私個人に関しては、ここ数年、極めて不適切な命名です(笑)
No.245 Re: 今日は風が強うございました ニジェガロージェッツ [2004/05/05(水)12:22:27]
Ондрей Заков さん、こんにちは。
昨日の関東地方の強風は、尋常ではなかったみたいですね。皆さんご無事でしたでしょう
か。
こちら神戸では、大した風は吹かなかったですが。
 
: かかる状況の背景にあるのは、渡船の類が整備されている為か、
: あるいは旧社会主義国ゆえに罷り通る感覚か、はてさて?

おそらく、後者でしょう。
ニジニ・ノヴゴロド市内のオカ川の両岸を行き来する渡船は整備されておらず、市内交通
は3本の橋に頼っています。このうちの2本の橋上には、路面電車が走っています。
3本の橋が揃って活きているときは、まだ幸せで、しばしばそのうちの1本が交互に補修
工事などで閉鎖されることがありました。

こういった状況が放置される背景には、この都市がオカ川両岸に跨りながらも、川を境に
全く産業構造が違うところがあり、両岸相互間の関連が薄いことがあるかも知れません。
ただ、鉄道ターミナルは左岸に、一方で都心は右岸の丘の上に位置しており、現在ターミ
ナルを中心とした左岸の工業地帯のみで運行されている地下鉄の、右岸都心地区への延伸
を計画されていますが、オカ川を越えての建設(地下?、架橋?)が難問で、工事の進捗
はいまひとつです。

: ウォッカには割水という概念が無いのだろうか?

日本のビール会社のロシア進出構想のお話、有難うございました。
小生は下戸ですが、それでも日本のビールとロシアのビールが全く違った味であることは
存じております。日本のビールはロシア人には結構いけるようです。
ウオッカの水割りですが、これは現地では聞いた事がありません。おそらく、そういった
概念が無いかも知れません。

さて、連休も今日で終わりですが、小生のような自営業者にとって、収入が入らない事か
ら「ブラックウイーク」と呼称したいところです。
今日は天気も良く、空気も爽やかで、ブラックウイーク最後の休日を楽しむこととしまし
ょう。
ところで、拙「ニジェガローツキー・ドヴォール」へは、平日のアクセス数のほうが多い
ようですが、気のせいでしょうか。(笑)
No.246 ビールの話 господин Ондрей Заков [2004/05/05(水)13:03:56]
>日本のビールとロシアのビールが全く違った味であること

ロシアの場合、従前は欧州産のビールが多く入っていたとか。
キリンでは、英国の生産拠点からの出荷となり、この事から、
モスクワ界隈と極東で趣向の違いも垣間見える気がしますね。

さて、ビール消費量云々の話ですが、日本の場合、酒税法上
ビールの代替性が強い発泡酒は別区分となり、廉価性を求め
発泡酒の相対消費量が増えている状況にあっては、消費量の
算出根拠を厳密に税法と照らし合わせているか否か、細かい
ところながら、気になります。発泡酒を同一視するか否かで
メーカー別の宣伝文句も微妙に異なる様ですし。

以上、社長様が茨城(それも身近な県北山間部)出身なので
それだけの理由で、キリンを飲む事が多いザーコフでした。
No.247 サンクトペテルブルクの謎 ニジェガロージェッツ [2004/05/05(水)13:28:31]
拙稿No.232でお知らせしておりました市名の五十音索引を、「ロシア市名 日本語カナ索
引」として、UPしました。
ロシア全1098市+サンクトペテルブルク郊外の旧8市の1106市の現行市名に加え、旧市名
、またよく見受けられる別表記でも引けるようにしました。
結構膨大な量になりましたので、索引ということで気軽に見れるようにページを軽くする
ため、6ページに分割しました。
今後ともデータベースとして、更にご活用頂けましたら幸いです。

ところで、先に言及したサンクトペテルブルクの郊外8市(コルピノ、プーシキン、ペテ
ルゴフ、クロンシュタット、ロモノーソフ、セストロレツク、パヴロフスク、ゼレノゴル
スク)ですが、2002年国勢調査によれば、連邦構成体の「サンクト=ペテルブルク市」の
都市数が「1」となっており、人口数も都市のしてのサンクト=ペテルブルクの人口と一
致していることから、サンクト=ペテルブルク本体に統合されたと見なせます。
一方で同じ市単独で連邦構成体となっている「モスクワ市」の都市数は「5」となってお
り、同市に含まれるゼレノグラード市、ヴォストーチヌイ町、ネクラソフカ町、ヴヌコヴ
ォ町が、モスクワ本体とは別都市として扱われていることが解り、連邦構成体「モスクワ
市」よりモスクワの人口が25万人以上少ないデータにも裏づけられます。
 
過去の調査では、連邦構成体「サンクト=ペテルブルク市」と、都市としてサンクト=ペ
テルブルクとの人口には、50万人以上の差があり、この時には郊外の各市町がサンクト=
ペテルブルク(或いはレニングラード)とは別扱いだったことが解ります。

サンクト=ペテルブルク市の公式サイトを調べてみましたが、小生の露語理解力不足もあ
り、この「郊外編入」についての経緯を見つけることは出来ませんでした。
市内各区のページへのリンクもありましたが、ここではクロンシュタットとロモノーソフ
が「市」として、コルピノ、プーシキン、ペテルゴフ(ペトロドヴォレッツ)、パヴロフ
クスは「区」、セストロレツクとゼレノゴルスクは「クロールト区」に統合して書かれて
います。
また、別の地理サイトでは、サンクト=ペテルブルク市内に「クラスノエ・セロ」という
新市が1999年に出来たとの情報もあり、こちらの理解を超えています。謎です。

一体、この8市(または9市)を「市」として扱ってよいものかどうか。
もしこのことについて、ご意見や情報をお持ちの方がおられれば、是非お聞かせ下さい。
参考: http://gov.spb.ru/gov/admin/terr
No.248 Re: サンクトペテルブルクの謎 アファナーシー=ニキーチン さん [2004/05/05(水)20:48:29]
こんにちは。日本語カナ索引の完成、おめでとうございます。

ペテルブルクの地理区分について、手元の辞典や地図で見てみました。
まず、2003年発行「Энциклопедия:Города России」では「ゼ
レノゴルスク、コルピノ、クロンシュタット、ロモノーソフ、パブロフスク、ペトロドバ
レッツ、プーシキン、セストロレツク各市及び17町(посёлок гор.типа)
がサンクトペテルブルク行政府の管轄下に含まれる」とあります。
連邦構成主体としての「大」ペテルブルク=中心部の「小」ペテルブルク+郊外の8市17町
ということでしょうか。
ニジェガロージェッツさん引用の行政府のサイトによれば、これが全部で18のрайон
(区?支庁?)に分かれているようですね。
個人的には、「大」ペテルブルクが東京都、「小」ペテルブルクが23区、8市17町が都下
市町村のようなものかなという感じがします。

地図や電話帳では、郊外の各市は概ね別の市として扱われているようです。住所表示もг
.Кронштадтのように別の都市のように書きます。

行政区画の変遷・経緯など、これ以上詳しいことは存じておりません。あまりお役に立て
ず、すいません。
No.249 Re: ビールの話 ニジェガロージェッツ [2004/05/06(木)00:01:20]
Ондрей Заков さん、こんばんは。
ビールの楽しいお話、ありがとうございます。
: ロシアの場合、従前は欧州産のビールが多く入っていたとか。
: キリンでは、英国の生産拠点からの出荷となり、この事から、
: モスクワ界隈と極東で趣向の違いも垣間見える気がしますね。

確かにロシアでは、よくドイツ産のビールが店頭に並んでいた印象を持ちました。一方で
小生が極東を訪れたのは10年も前のことですが、ウラジオストク辺りでは、中国産のビー
ルも売られていた記憶があります。

小生が初めてロシア(ソ連)産のビールを味わったのは、1989年のサハリンでのことで、
当時はまだソ連が健在で、西側の商品の流通は一般ではないようでした。
あの時のビールの味は、丁度ソ連名産の「クワス」というライ麦を発酵させた清涼飲料が
ありますが、それをアルコール飲料にしたような味に思えました。
「クワス」の味ですが、味音痴の小生としては何と説明して良いのか、麦茶にパンのイー
スト菌のようなものを混ぜて発酵させたような味というか、パンの風味というか酸味をそ
のままジュースにしたような、ちょっと説明し難い味でした。それでいて結構、冷やすと
喉越し爽やかな飲料で美味しかったですよ。
No.250 Re2: サンクトペテルブルクの謎 ニジェガロージェッツ [2004/05/06(木)00:58:05]
アファナーシー=ニキーチンさん、現地からの早速のフォロー有難うございました。
本当は二キーチンさん指名でお尋ねしたかったのですが、もしご関心がなければ余分なお
手数をお掛けすることと思い、敢えて指名は遠慮致しました。
それにしても期待を上回るご回答をお寄せ頂き、心より感謝申し上げます。また、拙カナ
索引完成についてまでお気遣いのお言葉、有難うございました。

二キーチンさんの東京都の行政区分との対比しての
: 個人的には、「大」ペテルブルクが東京都、「小」ペテルブルクが23区、8市17町が都下
: 市町村のようなものかなという感じがします。
ご説明は大変、解り易いものでした。
行政的には、郊外の8市17町はペテルブルクに含まれ、市内行政区(район)が設け
られているものの、実際には住所などでは「市」が存在しているということですね。

: まず、2003年発行「Энциклопедия:Города России」では「ゼ
: レノゴルスク、コルピノ、クロンシュタット、ロモノーソフ、パブロフスク、ペトロドバ
: レッツ、プーシキン、セストロレツク各市及び17町(посёлок гор.типа)
: がサンクトペテルブルク行政府の管轄下に含まれる」とあります。

この情報大変興味深いもので、先の国勢調査結果で「大」ペテルブルクを一括りに1都市
として扱ったのも、これを受けてのものでしょう。

拙サイトでのページ「大都市の行政区一覧」をUPするのに調べ上げた際、サンクトペテ
ルブルクを20区と確認しましたが、そのうちの7区(コルピノ区、プーシキン区、ペトロ
ドヴォレッツ区、クロールト区、クロンシュタット区、ロモノーソフ区、パヴロフスク区
)が郊外の「8市17町」のようです。その中で、クロンシュタットとロモノーソフについ
ては、「市」をそのまま「区」としているようで、先の拙稿に参考リンクを出した行政府
のページにある見出しが「18区+クロンシュタット、ロモノーソフ2市」となっているの
は、そのためと推測します。

但し、こういった区分は、あくまで行政上のことで、実生活においては、郊外の8市17町
は歴然として存在するものということのようですね。

拙サイトでは、国勢調査などでこれらの郊外市町がペテルブルクと一括りで扱われている
以上、人口データとしてはペテルブルク本体に統合されたものとして扱い、また地名(市
名)としては、独立したものとして扱っていきたく考えます。

ペテルブルクについては、現地に行ったことがないだけに全く土地鑑がなく、二キーチン
さんの情報は本当に助かりました。
No.251 更にビールの話 господин Ондрей Заков [2004/05/06(木)10:22:18]
>ウラジオストク辺りでは、中国産のビールも売られていた

地理的に、中国系の住民が少なくない背景があるのでしょうか。
中国のビールと云えば山東省青島が有名ですが、ここはかつて
ドイツの租借地だった文化的背景ゆえの産物だそうですね。

かつては、深刻な物資不足から研究室でアルコールを合成する
酒類密造の如きもまま見られたとの報道を一瞥したものですが、
近年のかかる状況を見ると、相応に経済が安定・進捗している
証左と考えるべきでしょうか。

醸造の原理自体は割と単純で、農学部に進んだ友人が、実験で
少量の清酒を仕込んだ事があり、宴会のネタにしようとしたら
尿酸値が異常に高くて諦めた、などというエピソードも(笑)
No.252 コムソモリスク ナ アムールの地図 メルニク さん [2004/05/06(木)21:50:43]
コムソモリスク ナ アムールの町の地図を探していますが、どなたかご存知の方いらっ
しゃいませんか。
ロシアの地図はなかなかないので、無理かもしれませんが、もしあったら教えてください
。
No.253 Re: 更にビールの話 ニジェガロージェッツ [2004/05/07(金)00:20:56]
Ондрей Заков さん、こんばんは。
ビールと酒類醸造のお話、有難うございました。

: >ウラジオストク辺りでは、中国産のビールも売られていた 
: 地理的に、中国系の住民が少なくない背景があるのでしょうか。

この当時はまだウラジオストクに中国人が大挙押し寄せる前の時代で、むしろ中国の東北
地方のビール会社あたりが、隣地の極東ロシアを有望な市場と見なして積極的に売り込ん
だのではという気がします。

: かつては、深刻な物資不足から研究室でアルコールを合成する
: 酒類密造の如きもまま見られたとの報道を一瞥したものですが、

これはゴルバチョフ政権下で、アル中社会だった(とされる)ソ連末期に出された酒類の
製造を引き締めた時代のことでしょうか。
あの時代は、そのために酒類が品薄となり、酒類密造が横行したと耳にしましたが。

: 近年のかかる状況を見ると、相応に経済が安定・進捗している
: 証左と考えるべきでしょうか。
 
残念ながら、そこまでは小生には分りません。申し訳ない。
No.254 Re: コムソモリスク ナ アムールの地図 ニジェガロージェッツ [2004/05/07(金)00:28:35]
メルニクさん、はじめまして。

早速コムソモリスク=ナ=アムーレの地図を探してみましたが、ネット上では、残念なが
らこれといった詳細な市街地図が見つけられませんでした。

簡単な都市の概略を描いたようなものは見つけましたが、おそらく、メルニクさんのお探
しになっておられるようなものではないと推測します。

取り敢えず、ご参考までにリンクを出しておきます。

http://www.transsib.ru/Map/railways-o-komsomolsk.gif

http://geo.1september.ru/2002/03/3_a.htm

あまりお役に立てず申し訳ございませんが、今後もどうぞ宜しく御願い申し上げます。
No.255 Re2: コムソモリスク ナ アムールの地図 アファナーシー=ニキーチン さん [2004/05/07(金)00:42:54]
紙の市街地図であれば、モスクワの「ドーム・クニーギ」の地図コーナーで見た記憶があ
ります。ご参考まで。
No.256 ありがとうございます。 メルニク さん [2004/05/08(土)19:01:41]
やっぱり難しいですね。
もし情報あったら、またよろしくお願いします。
No.257 Re3: コムソモリスク ナ アムールの地図 ニジェガロージェッツ [2004/05/09(日)13:31:29]
No.255 アファナーシー=ニキーチン さん。
いつもフォロー有難うございます。
モスクワのノーヴイ・アルバート通りにある「ドーム・クニーギ」ですか。小生もモスク
ワへ行った際には必ず立ち寄っていました。
以前は極東・シベリア方面の地図類が品薄だったように記憶していますが、コムソモリス
ク=ナ=アムーレの市街地図がある所をみると今では更に充実したようですね。
 
No.256 メルニク さん。
大してお役に立てず、申し訳ありませんでした。
もしコムソモリスク=ナ=アムーレの市街地図を見つけた時には、必ずこちらでご報告さ
せて頂きますので、今後も宜しくお願い致します。
No.258 tosh さんへ (過去ログ移動の件で) ニジェガロージェッツ [2004/05/09(日)13:39:06]
昨年末にtoshさんからご投稿頂いたNo.153「Re2: かつての収容所の現在」が過去ログへ
移動となりました。
これに際し、No.153については更に見やすくするために表を挿入して、列を整えて見まし
た。
また、No.155にて一部内容をご訂正いただいておりましたが、それもNo.153に反映し、No.155
の訂正部分は削除させて頂きました。

過去ログへの移動の際には、記事に手を加えずにそのまま移動させていただくのを原則と
していますが、No.153に書かれている情報があまりにも貴重な情報と判断し、そのまま過
去ログに貼り付けるのでは勿体無く、更に見やすい形を提供したいと思っておりました。
一度ご確認頂ければ幸いです。
http://www.hi-net.zaq.ne.jp/nizhniy-kobe/yarmarka02.htm#153
更に表に背景色を付けたいとか、タイトルを変更したいとのご要望がありましたら、どう
ぞ遠慮なく仰って下さい。
また、以前の手を加えない状態の方が良いとのことでしたら、元に戻せますので、その場
合はご連絡下さい。では。

P.S ノヴォシビルスクでのお暮らしは如何でしょうか。お元気でおられることをお祈り
致します。
No.259 ゴーリキーパーク господин Ондрей Заков [2004/05/09(日)18:11:40]
かつて、米国の加州知事がソ連の警官役で主役を演じた、邦題
「レッド・ブル」なるハリウッド映画がありました。この作品、
「タイタニック」などで知られるJ・ホーナーによる主題曲が、
「鉄のカーテンの先で鉄の布陣を誇る強大な軍事国家」とでも
評すべき感覚を以て、壮大な合唱付きの行進曲風になっており、
個人的に好きな映画音楽のひとつです。

この映画や背景音楽の作風は「Speak Lark」で御馴染みだった
L・マーヴィンらが出演した「ゴーリキー・パーク」の影響を
受けているとの見方も多い様で、せめてサントラだけでも一度
聴いてみたいものですが、廃盤になったのか、見つかりません。

ゴーリキー公園はモスクワ市内の立地ですが(映画のロケ地は
東西冷戦を反映して、フィンランドだそうな)確か同名の街が
モスクワとは別にあったと記憶します。高名な作家の名前でも
聞きますし、固有名詞としてはポピュラーなのかな。

ソ連軍を描写した映画主題曲というと、作曲者は異なりますが、
「レッド・オクトーバーを追え」も想起されますね。「レッド・
ブル」もそうですが、歌詞が英語と露語の何れかも良く判らず、
解説書にも何の言及も無いのが、少々もどかしく思われます。
No.260 ゴーリキー氏とゴーリキー市 ニジェガロージェッツ [2004/05/10(月)00:14:00]
Ондрей Заков さん、こんばんは。

今度は「ゴーリキー・パーク」ときましたか。目をつけられる所が面白い。(笑)
このモスクワ都心にある、モスクワ川右岸のゴーリキー公園はロシア語で「マクシム・ゴ
ーリキー記念公園」(Парк имени Максима Горького [パール
ク イーメニ マクシマ ゴーリカヴァ])と言います。
映画「ゴーリキー・パーク」はこのゴーリキー公園で起った殺人事件に端を発するスパイ
物だったように記憶していますが、どうだったかな?

: ゴーリキー公園はモスクワ市内の立地ですが(映画のロケ地は
: 東西冷戦を反映して、フィンランドだそうな)確か同名の街が
: モスクワとは別にあったと記憶します。高名な作家の名前でも
: 聞きますし、固有名詞としてはポピュラーなのかな。

はい、ゴーリキー市でしたら勿論知っています。1991年にニジニ・ノヴゴロド市と改称さ
れています。
マクシム・ゴーリキー氏は作家、劇作家、革命派の社会活動家として知られ、1868年生ま
れのニジェガロージェッツで、本名をペシコフ・アレクセイ・マクシモヴィッチと言い、
1936年に急死していますが、死因は現在でも謎とされ、毒殺説もあります。
作家として「マクシム・ゴーリキー」のペンメームは1892年にチフリス(現在のトビリシ
)で使用したのに始まりますが、この「ゴーリキー」はロシア語で「辛い(つらい)」「
痛ましい」「哀れな」という意味(他に味覚として「苦い」など)があり、自身の半生を
振り返っての命名とされています。
代表的な作品、戯曲「どん底」はニジニ・ノヴゴロドの貧民街の簡易宿泊所を舞台として
描かれています。
スターリン時代に故郷ニジニ・ノヴゴロドを彼の名に因んで改称する案が上がると、不幸
に因む名だけにゴーリキー氏は猛反対しますが聞き入れられず、1932年に市名・州名とも
「ゴーリキー」と改名されました。

マクシム・ゴーリキー氏に因む地名としては、この「ゴーリキー市(州)」とモスクワの
「ゴーリキー公園」が有名ですが、ソ連各地の都市に通り名や公園名として命名され、集
落名としては「ゴーリコフスキー」「ゴーリコフスカヤ」「ゴーリコフスコエ」といった
名で各地に存在しています。
固有名詞としてはポピュラーです。
No.261 カーゲーベー господин Ондрей Заков [2004/05/10(月)12:25:06]
>ゴーリキー公園で起った殺人事件に端を発するスパイ物

その様ですね。背後にKGBの暗躍あり、という設定の様です。
「KGB」は本来「ケージービー」でなく「カーゲーベー」と
発音するのが正しいと聞いた事があります。元々キリル文字で
表記するところ、アルファベットに置換したと考えるべきかな。

>1991年にニジニ・ノヴゴロド市と改称されています。

そういう事だったのですか。目から鱗が脱落する思いです(笑)

>代表的な作品、戯曲「どん底」

日本でも上演例が多々ある様ですね。故・手塚治虫氏の異色作
「七色いんこ」でも紹介されたりで、妙に印象に残っています。

>不幸に因む名だけにゴーリキー氏は猛反対しますが、

スターリン時代ならではの上意下達的な構造の産物でしょうか。
スターリンというと、疑心暗鬼、粛清等に基く独裁者と評され、
その一方、ソ連の重工業化を牽引した指導者という側面もあり、
最終的な評価は、ロシアでも今なお分かれる様ですね。

先に言及した「レッドブル」では、民族問題などでモスクワに
反駁するグルジアの麻薬マフィア首領との対決が描かれますが、
反駁の背景がスターリン以来の「大ロシア主義」にあるとして、
スターリンはグルジア出身ではなかったかな?
No.262 今回は少し視点を変えてアラスカ薀蓄など господин Ондрей Заков [2004/05/10(月)19:10:22]
アラスカが元々ロシア領だったのは有名な話ですが、最初の
「唾付け」は、デンマーク出身で帝政ロシア軍の尉官だった
ベーリング船長が1741年に同地を探検した事が発端だそうで、
その時に持ち帰ったラッコの毛皮が、一大ブームを招来して、
同地域におけるロシアの経済的進出を促す事になったとか。

大陸間最狭部が85kmというベーリング海峡は勿論、同船長の
名前に由来するものですが、以前言及したラクスマンと同様、
外国出身にあってロシアに任官される辺り、当時のロシアを
巡る国際的な力関係が垣間見える思いです。

1784年、正式にロシア領が宣言された後は、毛皮や石炭等の
商材を以て、遠くカリフォルニアまで遠征したとか。当時の
合衆国といえば、独立戦争(1775−1783)の直後で、ガッツ
石松さんの「OK牧場」…………じゃなかった、ワイアット・
アープ以前の時代ですから、当時の国力からすると圧倒的に
ロシア優位だったのでしょうね。

ロシアがアラスカを手放したのは、クリミア戦争に伴う南下
政策の頓挫に関連し、戦後の疲弊から英国所領に繋がる事を
懸念した為との事。その結果の譲渡先が米国という訳ですが、
英国が駄目で米国なら良いという理由が良く判りません。

アラスカが 720万弗で米国へ譲渡されるべく調印されたのは
1867年の事。当時、米国側の交渉責任者だった国務長官には、
利用価値の低い寒冷地の取得に多大な費用を拠出したとして
非難が集中したとの事ですが、その後のゴールド・ラッシュ
(鉄道の建設や開発拠点としてのアンカレッジの街の整備は、
正にこのブームの産物とか)や、石炭・石油などの地下資源、
鮭に象徴される水産資源、それらの加工に関連して発達した
林業など、アラスカは経済上、多面的な要衝性を持ち始めて、
件の長官に対する評価も、一転して高いものとなりました。

後年の経済的利点が予見されていれば、米国に譲渡する事も
無かったと、ロシアは地団駄を踏んだかも知れません。もし
ロシア領の侭なら、北米大陸に「鉄のカーテン」が引かれた
可能性もあり、冷戦構造も大きく変わっていたのでしょうね。
ちなみにアラスカの州昇格は1959年と、割と最近なのですね。

さて米国「本土」からアラスカに移動する場合、航空機なら
問題は無いのでしょうが(直行便の増大により、欧州航路の
中継拠点機能が大きく後退したアンカレッジ市の現況とは?)
陸路移動におけるカナダ領内通過の際、何らかの特典ないし
特例の類があるものか、少々気になります。

東西冷戦時代、西独から西ベルリンへの列車移動では、東独
領内通過の際、火器武装した東独国境守備隊の兵士が同乗し
東独領内は無停車だったそうですが。

(レスがつく前に次の話題を振ってしまい、済みませんです)
No.263 Re:カーゲーベー господин Сомпин Сомринович Пражний [2004/05/11(火)00:59:08]
No. 261  Ондрей Заковさん
: 「KGB」は本来「ケージービー」でなく「カーゲーベー」と
: 発音するのが正しいと聞いた事があります。元々キリル文字で
: 表記するところ、アルファベットに置換したと考えるべきかな。
ラテン・アルファベットでも,本来の読みでは「カーゲーベー」ですね.ケージービーな
どという読み方は英語訛りでしかない,と思っております.
個人的に,ラテン語を相手にすることもあるのですが,やはりKGBは「カーゲーベー」で
すね.
No.264 Re: カーゲーベー ニジェガロージェッツ [2004/05/11(火)01:14:58]
Ондрей Заков さん、КГБのお話、アラスカのお話と面白い話題のご提供有
難うございます。楽しく拝読させて頂きました。

: 「KGB」は本来「ケージービー」でなく「カーゲーベー」と
: 発音するのが正しいと聞いた事があります。元々キリル文字で
: 表記するところ、アルファベットに置換したと考えるべきかな。

そうですね。「ケージービー」「カーゲーベー」ともに“正しい”と思いますが、ロシア
通の方は後者で言うでしょう。
正式名称は
Комитет государственной безопасности
[カミテード ガスダールストヴェンナイ ベザパースナスチ]と言い、
комитет[カミテート]は男性名詞で「委員会」
государственный[ガスダールストヴェンヌイ]は形容詞で「国家の」
безопасность[ベザパースナスチ]は女性名詞で「安全」。
女性名詞「安全」に係る形容詞「国家の」は女性形語尾となり
государственная безопасность
[ガスダールストヴェンナヤ ベザパースナスチ]となり、この2語が冒頭の男性名詞「委
員会」を修飾するため、「〜の」を表す生格形へ格変化し正式名称の形となる、という文
法構造です。
この3語の頭文字を取って、“КГБ”となり、[カーゲーベー]と読みます。
直訳すれば、「国家の安全の委員会」ですが、一般には「国家保安委員会」と訳されるこ
とが多いようです。


: スターリンはグルジア出身ではなかったかな?

そうです。「スターリン Сталин」は云わばペンネームで、
本名は「ジュガシヴィリ Джугашвили」。
1879年にグルジアのゴリ市出身で、母語はグルジア語。ロシア語の習得は後のことで、い
つも話すロシア語もはっきりとしたグルジア訛だったようです。

アラスカについては、また日を改めまして・・・(笑)
No.265 Re: 今回は少し視点を変えてアラスカ薀蓄など アファナーシー=ニキーチン さん [2004/05/11(火)02:19:58]
 : 東西冷戦時代、西独から西ベルリンへの列車移動では、東独
: 領内通過の際、火器武装した東独国境守備隊の兵士が同乗し
: 東独領内は無停車だったそうですが。

そういえば、リトアニアのEU加盟に伴いカリーニングラード州への鉄道輸送(ビリニュス
経由)が露・EU間の懸案となった際、ロシアの大統領が冷戦時代の西ベルリンの例を引い
てカリーニングラードへのビザ無しノンストップ「封印列車」案を提案したことがありま
した。素人目にも冷戦思考丸出しの時代錯誤な案でしたが、案の定採用はされず、現在で
は簡易なビザ手続きが導入されているようです。ペテルブルク市内の中央鉄道切符売場で
は、同州行き列車の利用者専用窓口が設けられて便宜が図れらているようです。
 
: さて米国「本土」からアラスカに移動する場合、航空機なら
: 問題は無いのでしょうが(直行便の増大により、欧州航路の
: 中継拠点機能が大きく後退したアンカレッジ市の現況とは?)
: 陸路移動におけるカナダ領内通過の際、何らかの特典ないし
: 特例の類があるものか、少々気になります。

ロシアでも、運転経路の途中で外国領土を経由する列車が多数運転されています。私が経
験したのはペテルブルク〜スモレンスク間(途中ベラルーシ領ビテフスク経由)の列車だ
けですが、ロシア・ベラルーシ両国国境では二国間協定に基づき出入国管理も税関手続も
行われておらず、一般の国内長距離列車と何ら変わりがありませんでした。もっとも、万
一のためにベラルーシのトランジットビザは当地で事前に取得しておきましたが。
No.266 ちょっと歴史的言及 господин Ондрей Заков [2004/05/11(火)09:54:58]
>ラテン・アルファベットでも,本来の読みでは「カーゲーベー」

仏国鉄の看板列車「TGV/テージェーベー」にも通じる様な
感覚ですね。ラテン圏ではないけれど、独国鉄「ICE」でも
ひういう発音があるのかな?

KGBといえば、本部所在地に基く「ルビアンカ」なる名称も
通用性が高い様です。丁度、CIA/ラングレー、仏大統領府/
エリゼ宮、韓国大統領府/青瓦台(チョワンデ)と同様ですね。
ロシアですと、何と言っても「クレムリン」でしょうけれど。

一方、東西冷戦を扱ったハリウッド映画では、ロシア人全般を
「イワン」と呼称する場面が間々散見されました。この語源は、
朴訥なる勤労者が最後には勝つ、という教育的教訓性が窺える
「イワンの馬鹿」に由来するのかな?

故・石ノ森章太郎氏の人気漫画「サイボーグ 009」に登場する
001は「イワン・ウイスキー」。一瞬「ワイン・ウイスキー」と
読み違えた 003萌えの飲兵衛ザーコフでした(笑)

>「スターリン Сталин」は云わばペンネームで、

「鋼鉄の人」 の意味だそうですね。英語では Iosif Stalin。
片仮名表記の感覚では Yosif となりそうで、外国人は難しい。

>本名は「ジュガシヴィリ Джугашвили」

スターリンが出身地のグルジアにて、中央集権的な権力行使を
行った背景には、同地が大衆政党・ブルジョア革命を主張した
メンシェビキの一大拠点だった事情がある様ですね。11月革命
(ロシア暦で十月革命の事か?)時、グルジアはメンシェビキ
指導の共和国となり、ドイツ軍を迎えるなど親西欧的な路線を
採りましたが、その反動でボルシェビキが主導権を握った後は、
民族問題の処理に大きな禍根を残す程の弾圧が行われたという
事の様です。

>二国間協定に基づき出入国管理も税関手続も行われておらず、

鉄道網が発達した欧州ならではの現象ですね。封印列車に近い
感覚として、フリードリッヒシュトラッセを唯一検問駅とした、
分断時代のベルリンにおけるSバーンの例が想起されます。
No.267 ロシア領アメリカ ニジェガロージェッツ [2004/05/12(水)00:05:00]
No.262 Ондрей Заков さん

: アラスカが元々ロシア領だったのは有名な話ですが、最初の
: 「唾付け」は、デンマーク出身で帝政ロシア軍の尉官だった
: ベーリング船長が1741年に同地を探検した事が発端だそうで、
: その時に持ち帰ったラッコの毛皮が、一大ブームを招来して、
: 同地域におけるロシアの経済的進出を促す事になったとか。

ロシアの北米大陸への進出ですが、これは帝政ロシアの国策会社「露米会社」
(Российско-Американской компании 1799年〜1867年)
が一手に担っていた植民地経営で、この会社は北米の植民地経営のみならず、極東、北太
平洋における貿易の発展を目的として1799年にイルクーツクを本拠に(翌年ペテルブルク
に本拠は移転)設立されました。
アラスカから千島列島にかけての毛皮獣の捕獲、鉱物資源の独占的利用と販売を政府によ
って認められていました。
ロシア領アラスカ(ロシア語でАляска[アリャースカ])の中心は南端に近い現在の
シトカ(Sitka)で、
これを当時はノヴォアルハンゲリスク(Новоархангельск)と呼んでいま
した。
ロシア人の一団は野菜栽培と毛皮獣をもとめて、ここから更に2000キロも南へ離れたカリ
フォルニアに「フォルト・ロス」(форт Росс)という集落を築き、植民地とし
ました。
「フォルト」はロシア語で「堡塁」を意味し、「ロス」の意味は判りませんが、綴りの 
Росс に ия を付ければ文字通り「ロシア」となり、詩的には「ロシア人」を意味
することから、「ロシアの堡塁」ぐらいの意味合いだと推測します。

手元にある9年生用の世界史地図帳には、サン=フランシスコの少し北の海岸に「フォル
ト・ロス ロシア領1812〜1841年」とあります。
当初カリフォルニア一帯はスペイン領で、1821年に独立したメキシコに継承されますが、
こんな所にロシアの植民地があったとは驚きです。

ロシアのサイトにフォルト・ロスの城砦のようなものの写真がありました。
http://eminavn.photosight.ru/photo.php?photoid=160264&ref=author
このような歴史建造物は明らかにロシア人の仕業です。

では、今の米国カリフォルニア州での旧フォルト・ロスは何と呼ぶか地図で調べると、ず
ばり Fort Ross という地名が残っており、ロシア植民についての博物館があるようです
。また、近辺に Russian River という川もあるようです。
http://sugimoto.on.arena.ne.jp/album/sonoma20010612.htm

ロシアが30年でこの地を手放したのは、毛皮獣を捕り尽して植民地としての旨味がなくな
ったのと、あまりにも本国から遠く離れ先の見通しがないことからで、アメリカ人に3万
ドルで売却したそうです。

もし、ロシア帝国がフォルト・ロスを総力を上げて死守し、そのまま20世紀に入りロシア
革命を経てここがソ連領になっていたら、北太平洋はどうなっていたか、想像できません
が。

こんなこと書くとтайхакуさんに突っ込まれそうで恐いですが・・・(笑)
No.268 外国領土を経由するロシアの鉄道 ニジェガロージェッツ [2004/05/12(水)01:17:04]
No.265 アファナーシー=ニキーチン さん、飛び地カリーニングラードへの鉄道輸送での
ロシアの「封印列車」案と、EUの「簡易ビザ」案の違い、そのまま両陣営の思考構造の違
いを反映しているようで興味深く拝読しました。いつも楽しいお話、有難うございます。

: ロシアでも、運転経路の途中で外国領土を経由する列車が多数運転されています。私が経
: 験したのはペテルブルク〜スモレンスク間(途中ベラルーシ領ビテフスク経由)の列車だ
: けですが、ロシア・ベラルーシ両国国境では二国間協定に基づき出入国管理も税関手続も
: 行われておらず、一般の国内長距離列車と何ら変わりがありませんでした。

ソ連解体に伴い、旧ソ連国鉄も各国に分割されたのですが、当然その分割線は国境線だと
思いきや、国境から随分離れた所で分割されている場合も多いようですね。
以前No.188でニキーチンさんに教えて頂いたロシアの鉄道サイトにある17枚の鉄道局ごと
の路線地図を見れば、ロシア=カザフスタン国境で上記の例が顕著で、特に西シベリアの
クルガンからオムスクに通じる鉄道線のうち、クルガン州を出てオムスク州に入るまでの
200キロ以上に渡ってカザフスタン領をロシア国鉄南ウラル鉄道線が走っています。

http://www.rzd.ru/images/download.html?pi_id=9186

この間、北カザフスタン州の州都ペトロパヴロフスクを経由しているのですが、ペトロパ
ヴロフスクから南へ分岐する線の一部までもが南ウラル鉄道線となっています。
このクルガン―ペトロパヴロフスク―オムスクを通る線は、元々シベリア鉄道本線ではな
かったでしょうか?

これらの路線地図を見ていると、カザフスタン国境のように国境線を「無視」している所
もあれば、ベラルーシやウクライナ国境のように、比較的「厳守」している国々もあり、
ロシアとの2国間関係が垣間見えるようで、興味が尽きません。
参考: http://www.rzd.ru/museum/index.html?he_id_sh=820&he_id_sh=373&he_id=373
No.269 運行業務委託? господин Ондрей Заков [2004/05/12(水)15:40:59]
>「フォルト・ロス」(форт Росс)という集落を築き、

この「ロス」はLAのそれでしょうか。現在の感覚からすると
驚きの一言に尽きますね。アラスカの語源もなるほど、という
感じがしますね。

>20世紀に入りロシア革命を経てここがソ連領になっていたら、

ハリウッド映画が、革命教育的内容一辺倒になっていたりして。
1980年のモスクワに続き、1984年のロスと、五輪がソ連領にて
連続開催という事になりますか(笑)その一方、リムパックは
地理的環境から物凄い事になったのでしょうね。

>200キロ以上に渡ってカザフスタン領を
>ロシア国鉄南ウラル鉄道線が走っています。

乗務員の服務区間は、路線の所属先で区切られるのでしょうか。
一方、日本でJRと純粋な民鉄との跨り服務を挙げると、第三
セクターを介した特急の直通の様な例以外にはあまり無い様な。

>ロシアとの2国間関係が垣間見えるようで、

経済的な力関係が作用している様な印象を受けますね。または
自国での運行管理が覚束ない事から、業務委託をしているとか。
No.270 Re: 運行業務委託? ニジェガロージェッツ [2004/05/12(水)22:56:15]
Ондрей Заков さん、こんばんは。

: >「フォルト・ロス」(форт Росс)という集落を築き、
: 
: この「ロス」はLAのそれでしょうか。現在の感覚からすると
: 驚きの一言に尽きますね。

いや、これは無関係でしょう。ロサンジェルスの「ロス」は“Los”、一方のフォルト・
ロスの「ロス」は“Ross”、ということでLとRの決定的な違いがあります。

: アラスカの語源もなるほど、という感じがしますね。

「アリャースカ」は単にロシア語での綴りで、「アラスカ」本来の由来はインディアン語
で「大きい国土」の意だとか。

ところで、そのアラスカ州のカナダとの境は西経141度線あたりで直線で区切られていま
すが、太平洋沿岸ではその線から大きく南東に張り出しています。地図を詳しく見るとこ
の張り出した部分には氷河地形の海峡が複雑に入り組んで、事実上「飛び地」と言えそう
です。
現在のアラスカ州都ジュノーも、ロシア領当時の拠点ノヴォアルハンゲリスク(現在のシ
トカ)も、この張り出し部分に位置しています。
前出のフォルト・ロスも、実際には遠く離れていますが、この張り出し部分の延長上と考
えられるでしょう。


: >ロシアとの2国間関係が垣間見えるようで、
: 
: 経済的な力関係が作用している様な印象を受けますね。または
: 自国での運行管理が覚束ない事から、業務委託をしているとか。

ロシアとカザフスタンの国境をある意味「無視した」形での鉄道運営ですが、これは推測
ですが、便宜上そのように両国が「合意できる間柄」と言うことではないでしょうか?
拙稿No.268で例に挙げたカザフスタン領ペトロパヴロフスク辺りではロシアの鉄道、逆に
カザフスタンのウラリスクとアクチュビンスクを結ぶ路線は、ロシア領オレンブルク州の
南部を横断していますが、ここはカザフスタンの鉄道となっています。
No.271 アラスカに関する補足など господин Ондрей Заков [2004/05/14(金)09:33:53]
昨夜、ダウンタウンが仕切るバラエティー番組に太田プロの
若手芸人「劇団一人」が出演していました。父親が国際線の
パイロットを務めていた関係から、小学生の頃、アラスカに
居住していたそうです。中継基地の印象が強いアンカレッジ、
こうした赴任例もあったのですね。

日欧を結ぶ国際線が直行経路を採れる様になったのは、確か
ソ連が崩壊した後の事と記憶します。という事は、1991年に
独立国家共同体に移行した時以来かな。そして日欧便に関し
アンカレッジの存在意義は失われた様ですが、現在の同地は
どの様な状況なのでしょうね。

他方、第三国同士を結ぶ国際線の領空通過が飛躍的に増えた
ロシアでは「解禁後」間も無い頃のTV報道と記憶しますが、
航空管制業務が、昔日の国鉄におけるダイヤグラムの作成を
職人芸的に手書きで行う「スジ屋」宜しく、人力に負う面が
少なからず、安全確保の面でどうなのか、という論調内容を
仄聞しましたっけ。当時、アエロフロートを利用した友人は、
白系ロシアのスチュワーデスの美しさは賞賛モノだった一方、
スラブ魂を感じさせる年季の入った恰幅良いオバサマもおり、
奥の深さを痛感したそうですよ(笑)東西冷戦の残滓なのか、
英語の通用度が今ひとつだったのには難儀したとか。

露語で「会議・委員会」を意味する「ソビエト」の語ですが、
満州事変勃発の1931年、毛沢東は華南解放区統合政権として
瑞金を首都とする「中華ソビエト共和国」を樹立しています。
これに先立ち中国各地で解放区としての「ソビエト地区」が
設置された様ですが、こうした命名感覚からすると、当時は
同じ社会主義陣営同士、かなりの蜜月だったのでしょうか。

その後、フルシチョフのスターリン批判が発端となった中ソ
対立は、ダマンスキー島事件など国境界隈紛争にまで発展し、
インドシナ半島におけるベトナムとカンボジアの対立構造の
間接要因にもなったと言われますね。自国の先達への批判に
他国がこれほど反応した背景事情など、文革を絡めた当時の
中国情勢は複雑極まりない観があります。

映画「ラスト・エンペラー」の終盤における紅衛兵の描写は、
清朝と状況が一変した時代の変遷を象徴的に演出した印象を
受けますが、一般大衆レベルでは揚げ足取り、言葉狩り的な
側面も少なくなかった当時の傾向を笑い話風に纏めた「文革
笑科集」は、今なお印象に残る一冊でした。
No.272 Re: アラスカに関する補足など ニジェガロージェッツ [2004/05/15(土)20:51:07]
Ондрей Заков さん、こんばんは。
先程から神戸では雨が降ってきました。明日は三宮で神戸まつりメイン会場のパレードで
すが、雨の中での行進は大変でしょう。
今でも雨の中、須磨離宮公園で打ち上げ花火が行われていますが、地元としては、まつり
の成功を祈らずにはおられません。

さて、

: そして日欧便に関しアンカレッジの存在意義は失われた様で
: すが、現在の同地はどの様な状況なのでしょうね。

10年ほど前にテレビニュースか何かで欧州便を失ったアンカレッジ空港をレポートしたも
のを見た記憶があるのですが、かなり閑散とした様子だったと思います。「うどん」看板
のひらがな3文字が妙に印象に残っています。
ただ、米東海岸方面の航路の中継はどうなっているのでしょうか?

: 露語で「会議・委員会」を意味する「ソビエト」の語ですが、
: 満州事変勃発の1931年、毛沢東は華南解放区統合政権として
: 瑞金を首都とする「中華ソビエト共和国」を樹立しています。
: これに先立ち中国各地で解放区としての「ソビエト地区」が
: 設置された様ですが、こうした命名感覚からすると、当時は
: 同じ社会主義陣営同士、かなりの蜜月だったのでしょうか。

小生は共産主義のイデオロギーに関するものに全く興味を持っていないので詳細は存じま
せんが、「蜜月」というより、モスクワのコミンテルン(この言葉そのものが「共産主義
インターナショナル」の略称)と深い関連があったのではないでしょうか。
中国の現代史についても詳しい知識が無く、巧くお答えできないのが残念です。
No.273 Re2: アラスカに関する補足など アファナーシー=ニキーチン さん [2004/05/15(土)22:57:30]
: 10年ほど前にテレビニュースか何かで欧州便を失ったアンカレッジ空港をレポートしたも
: のを見た記憶があるのですが、かなり閑散とした様子だったと思います。「うどん」看板
: のひらがな3文字が妙に印象に残っています。
: ただ、米東海岸方面の航路の中継はどうなっているのでしょうか?

アンカレッジが航空技術の発達と政治情勢の変化によって中継地としての役割を失ったと
すれば、航続距離の長い旅客機が不足したまま経済成長を遂げつつある現在のロシアでは
、対照的に、国内長距離輸送の中継地として西シベリアの空港と空港会社がその立地条件
を生かしている例が見られます。

例えば、ヨーロッパロシアと極東ロシアの中間地点に位置するクラスノヤルスクとクラス
エアー、ノボシビルスクとシベリア航空が典型例でしょうか。
クラスエアーの場合、2001年にロシアの航空会社として初めて国内ハブ空港としての利用
を見込んだ接続の良いダイヤ(欧露路線⇔極東・シベリア路線相互間)を導入し、国内線
用トランジットターミナルを新築しています。同地方のフロポーニン知事はさらに野心的
で、クラスノヤルスクを極東・シベリアと西欧との中継地として生かすべく、現在は国際
線ターミナルを新築中との新聞記事を読んだことがあります。

ペテルブルクから極東ロシアの街へ飛ぶ場合、途中1〜3箇所で給油しながら飛ぶ便が週に
1〜3本程度しかないというのが現状なので、格安航空券でトランジット利用客を増やそう
というアイデア自体は優れているんですが・・・実際の仕事振りが伴わないのがロシアの
常。
私自身、昨年サハリンに旅行に行った際、サハリンまで片道2万6000円という安さに惹か
れてクラスエアー利用でクラスノヤルスク乗り継ぎを経験しましたが、ペテルブルクから
のイリューシン62の機内にはハエが飛び交い、ユジノサハリンスク行きのツポレフ154は
予定外(!)のハバロフスク着陸を行って結局6時間遅れ。本来別々の便を出すべきサハ
リン線とハバロフスク線のお客が少ないので、一本の経由便にまとめてしまったとのこと
・・・。日本の尺度では考えられません。
No.274 Re3: アラスカに関する補足など ニジェガロージェッツ [2004/05/16(日)02:04:37]
アファナーシー=ニキーチン さん、いつも新鮮な情報有難うございます。
クラスエアーとシベリア航空のお話、興味が尽きません。

ハエが飛び交う機内といい、別便を一つにまとめて飛ばすお話といい、如何にもロシアっ
ぽいというか、相変わらずですね。

日本―モスクワ間を行き来する国際便はフランス製のエアバス310型機が飛んでいて、ま
あまあだったのですが、国内便と言えば・・・。

強烈な記憶として残っているのは、1990年に乗ったユジノサハリンスク―オハ便。この飛
行機、型式は失念しましたがツポレフの30人乗りぐらいの小さなプロペラ機でした。
操縦は如何にもソ連軍パイロットといったベテランがマニュアルで颯爽と飛ばしていると
いった印象を持ちましたが、車内がいただけない。
例に漏れずハエが群を為して飛び交い、それを避けるようにのけぞると、座席の背もたれ
が「バキッ」と音をなして壊れると言った始末。
凄い体験をさせて頂きました。
街中を走るオンボロバスと同じ感覚になりました。

もう一つ、2000年に乗ったモスクワ―ブグリマ(タタルスタン)便は、これも30人乗りの
小さなプロペラ機ですが、やはりベテランがマニュアルで颯爽と飛ばしているといった印
象を持ちましたが、車内がいただけない。
窓のそばの内壁に大きな穴が開いたのか、そこを如何にも「そこらへんの鉄板をリベット
留めして補修しました」といった風情の仕上がり。
適当に開いているところが座席となったり、街中を走るオンボロバスと同じ感覚になりま
した。

両便とも、今では改善されているかも知れず、また、操縦そのものは結構巧く、無責任な
ことは言えませんが。
No.275 ロシアの航空事情 アファナーシー=ニキーチン さん [2004/05/16(日)04:53:51]
ニジェガロージェッツさん、それにしても飛行機の行き先が「オハ」とか「ブグリマ」と
か、あまり普通でないような気が・・・。

それは冗談として、ロシア・ソ連の航空ダイヤ検索は www.polets.ru が便利です。運
賃や航空会社情報、定時運行実績も事細かに公開されてます。
上記サイトによれば、モスクワ〜ブグリマ線はブグリマ航空のヤコブレフ40と出てます。
30人くらい乗れる小型ジェット機のようです。今頃は内装の修理が終わっているといいで
すね・・・。

ロシア国内に無数に存在する航空会社のポータルサイトとしては、航空会社便覧 www.dir.avia.ru/airlines/
 が役に立ちます。更新が遅れてるようですが、こちらは保有機種などに関心のある方に
。少しマニアックです。

個人的にも、ロシアに数多く存在する民族共和国には興味を持っております。ブグリマの
思い出や印象など、教えていただけたら幸いです。
No.276 タタルスタン雑感 ニジェガロージェッツ [2004/05/16(日)18:12:27]
アファナーシー=ニキーチンさん、こんにちは。
航空ダイヤの検索サイトの情報、有難うございました。

確かに考えれば「オハ」とか「ブグリマ」と普通の観光で行く所ではないですね。(笑)
オハへは2度目のサハリン旅行に行った際にリクエストしました。
当時はサハリン旅行解禁2年目にあたり、当然旅行者の中には旧樺太出身者も多く、それ
ぞれが本来の旅行コースから離れて、例えば奥地の郷里とかへの個人訪問の希望があり、
旅行社も積極的にリクエストに答えていました。小生の場合は前年に定番コースを廻って
いるので、オハ行きがOKならと申し込みました。

タタルスタン共和国のブグリマへは、ニジニで知り合った友人の結婚式に列席するのに行
きました。
実際にはブグリマではなく隣街のレニノゴルスク市ですが、このあたり一帯は油田地帯と
なっており、一帯の原野のあちこちに原油汲出しの櫓のような装置が稼動していました。
また、レニノゴルスクの街外れに第一油田発見のオブジェがあり、市内には油田博物館も
ありました。

ここはタタルスタン共和国の南東端に位置していますが、隣のバシコルトスタン共和国に
かけてタタール人が多く居住しているそうです。
レニノゴルスクのような油田開発から計画的に造成された都市でさえ、ロシア人とタター
ル人の比率は半々で、農村部へ行けばタタール人の比率が高いと聞きます。但し、一口に
「タタール人」といっても、ロシア人との混血も進んでいるのか見た目には様々で、完全
に金髪の欧州系白人が実はタタール人だったり、一方ではモンゴル系というかアジア系の
風貌のタタール人もいました。

レニノゴルスクからの帰路はタクシーでカザンに出て、ニジニノヴゴロド経由で列車を乗
り継ぎモスクワへ戻りましたが、タタルスタンの首都カザンは人口100万を越える大都市
ですが、ニジニのようなヨーロッパロシアの都市とは全く違った印象を受けました。
ここはニジニのような整然とした欧州の街並みではなく、アジア的な活気というか、混沌
と言うか、そういったものを併せ持った、ある意味「無国籍都市」といったような印象を
受けました。
カザンもまた、ロシア人とタタール人の比率は半々ぐらいだそうで、言われてみれば街行
く人々も、ロシアのそれとちょっと違うと感じました。タタール人は宗教でいえばイスラ
ム教徒が多く、ロシア正教とは全く違った価値観でしょうから、当然街の雰囲気の違いに
も出ているのしょう。

実際に住んでみれば、もっと色々な角度からタタールを感じることが出来るのでしょうが
、旅の途中に立ち寄っただけなので、表面的な雑感しか言えないのが残念ですが。
No.277 ロシアの地図 knockeye さん [2004/05/17(月)03:01:31]
初めまして。knockeyeと申します。
2002年にウラジオストーク〜サンクトペテルブルグ間をバイクで横断した記録を、ウ
エブサイトにまとめています。

このたび、ロシアで買ってきた地図をホームページにアップしました。

http://strawpen.hp.infoseek.co.jp/Russia/RussianAtlas.html

一度、ごらんになってください。まだ作りかけですが、ご意見頂ければ幸いです。
参考: http://strawpen.hp.infoseek.co.jp/Russia/RussianAtlas.html
No.278 逞しきロシア господин Ондрей Заков [2004/05/17(月)13:08:39]
>日本の尺度では考えられません。

政治体制云々とは別次元で図太さ、逞しさといった当地気質を
感じさせる様な御話ですね。約十年前と記憶しますが、機長が
戯れて子供に操縦桿を握らせ、エアバスを墜落させてしまった
事故がありましたね。現況は存じませんが、一時期ロシアでは
ソ連崩壊に伴う混乱の産物か、航空事故が少なくなかった様で、
旧西側諸国の駐在員は、同国で航空便を利用する度、さながら
ロシアン・ルーレットの如き思いに苛まれていた、などという
出典不明の小話もあるのだとか。

鉄道で移動する場合、モスクワ−極東は現在でも一週間程度を
要するのでしょうか。一般大衆の所得相場から見て、ロシアの
主要都市間を移動する場合、鉄道と航空の需要比率はどれ程の
関係にあるのか(長距離高速バスの様なものはあるのか)少々
気になるところですね。
No.279 ミグ господин Ондрей Заков [2004/05/17(月)16:53:41]
ロシアの商魂逞しきといえば、相場は失念しましたが、確か
30分間程度の行程で、ミグによる遊覧飛行がありましたっけ。
しかし、あれほどの高速機となると、一定の訓練を経ないと
一般人は通常飛行でも同乗は難しいのでは、と思うのですが。
(そういえば、映画「トップ・ガン」の撮影に際して、トム・
クルーズもかなり訓練したと聞きます。)

「ミグ」と聞くと、1976年の函館空港を連想してしまう中年・
ザーコフでした。直後「山口さんちのツトム君」の節に乗せ、
円鏡師匠が何か替え歌を歌っていましたっけ。
No.280 Re: ロシアの地図 ニジェガロージェッツ [2004/05/17(月)23:41:59]
knockeye さん、はじめまして。

見応えのある地図を掲載した楽しいホームページをご紹介頂き、本当に有難うございまし
た。小生のような地理好きにはたまらないサイトです。

それにしてもロシアをバイクで横断とは、もの凄いご体験をされましたね。(感服)
小生も一応自動二輪を愛用していますので、そのご苦労を想像するだけで気が遠くなりま
す。
運転技量、整備技術もさることながら、まず余程の持久力と体力を必要とする上に、あの
国ならではのロシア側との交渉の数々をこなす気力の持ち主でないと、とてもではありま
せんが完走など夢の夢ですね。

今から14年ほど前に、確かナホトカからロシア(当時はソ連)を横断して、フィンランド
国境へバイクで横断した日本人のグループのテレビ番組を見ましたが、その時、唯一バイ
クの通れなかったアムール州シマノフスク―チタ州シルカ間(だったかな?)のみシベリ
ア鉄道の貨車を利用しておられたように記憶していますが、knockeyeさんは更に大廻りで
ヤクーツクからレナ河を上ってウスチ=クートへ抜けられた由、大変なご苦労であったと
察します。

貴ホームページにはそれぞれの苦労話やご体験談、得難い貴重な現地情報が満載されてお
り、見ていて飽きないですね。

さて、ご紹介頂きました地図ですが、これは巧くつながりましたね。
実は小生もやや古いですが同じ地図を2冊(1996年版、1999-2000年版)持っています。
まだ製作途中とのことですが、クリックして見やすい拡大図も閲覧出来て、見事な仕上が
りだと思います。
ただ一つだけ述べさせて頂ければ、都市名の日本語表記で2点、「ナベ・チェルニ」「ニ
ジ・ノブゴロド」はどちらも日本人にとって馴染みのない都市だけに、出来るだけフルネ
ームに近い「ナベレージヌィエ・チェルヌィ」「ニジニ・ノブゴロド」と書かれた方が判
り易いのではないかと思います。
というのは、地図を見るにしてもリンク地図がロシア語だけに、日本語で書かれた市販の
地図と見比べながら、お書きになった紀行文を楽しまれている人も(特に地理好きなら、
まずそうするでしょう)少なくないと思うからです。どうぞご参考までに。

地図のほうは、個人的に手持ちの1999-2000年版のものとついつい見比べてしまうのです
が、knockeyeさんが「ロシア ツーリング ガイド」の本文で述べられているアムール州北
部のタルダン、ソロビョフスク辺りで道路工事の進展を物語る部分を数多く(こちらの地
図では破線・予定線で書かれていたり、また何も書かれていないところに道路が開通して
いたり)発見しました。

小生も一応「地理雑学サイト」の形をとっていますので、出来れば手持ちのロシアで入手
した面白い地図をUPしてみたいのですが、著作権の問題などもクリアする必要があるの
では、と二の足を踏んでいます。

これからもどうぞ宜しく御願い申し上げます。では。
No.281 Re: 逞しきロシア アファナーシー=ニキーチン さん [2004/05/18(火)00:04:59]
ニジェガロージェッツさん、タタールスタンのお話ありがとうございます。場所によって
は道路沿いで普通に石油が取れるものなのですね。
首都のカザンは来年2005年が建都1000周年とか。私もニジェガロージェッツさんと同じ2000
年頃行ったのですが、白壁のクレムリンの中にモスクがあったり、ヨーロッパ風の歩行者
天国沿いにトルコ料理店が軒を並べていたり、ロシアの地方都市とは違う趣があって、魅
力的な街だと思います。

: 約十年前と記憶しますが、機長が
: 戯れて子供に操縦桿を握らせ、エアバスを墜落させてしまった
: 事故がありましたね。

ありました…。導入したばかりのエアバスでした。いくら新鋭機を導入しても、機内はあ
くまでもロシア社会の延長なのですね。
 
: 鉄道で移動する場合、モスクワ−極東は現在でも一週間程度を
: 要するのでしょうか。一般大衆の所得相場から見て、ロシアの
: 主要都市間を移動する場合、鉄道と航空の需要比率はどれ程の
: 関係にあるのか(長距離高速バスの様なものはあるのか)少々
: 気になるところですね。

長距離バスの中でもバルト三国方面へは「ユーロライン」が路線網を広げていて、当地の
日本人の間でも夜行列車を嫌う女子留学生や学生旅行者にはそれなりに人気があるようで
す。ボルボやスカニアなど北欧製の大型バスを使用していて、市内各地の窓口で予約がで
きるそうです。
ただ、それ以外のロシアの長距離バスはコメコン体制の残渣と言うべき古いイカルス(ハ
ンガリー製)が多いです。ニジニノブゴロド→チェバクサーリ、プスコフ→ペテルブルク
など比較的長距離を乗ったこともありますが、車内は概して暗く不潔で、もちろんエアコ
ンなど無く、利用には一定の忍耐力を必要とします。バス事故も多いですし。

Заковさんご指摘の通り、航空機と鉄道のシェアは興味深いですね。
最近のロシアはヨーロッパ・地中海への観光ブームが続いていてリゾート地行きの国際線
が盛況のようですが、鉄道側も奮闘しているようです。
以前ご紹介したロシア鉄道の車内誌「エクスプレス」によれば、今年はモスクワ〜テッサ
ロニキ(ギリシャ)やモスクワ〜ブラッセルなどの直通車両(прицепной ва
гон)や、ベルリン〜カリーニングラード〜サンクトペテルブルク間の観光列車が運転
を開始するそうです。さらにはモスクワ〜ケルン、フランクフルト、チューリヒ間などで
も直通運転を開始すべく交渉が行われているとのこと。
運賃や運転頻度などは知りませんが、モスクワからベルギーやスイスまで直通する列車が
運転開始するとは、これまた日本の尺度では考えにくい話です。一体何カ国へ乗り換え無
しで行けるのでしょうか。
No.282 Re2: 逞しきロシア ニジェガロージェッツ [2004/05/18(火)01:39:46]
Ондрей Заков さん、アファナーシー=ニキーチン さん、レス有難うござい
ます。

: 鉄道で移動する場合、モスクワ−極東は現在でも一週間程度を
: 要するのでしょうか。

そのようですね。No.191でОтшельникさんに教えて頂いたサイトで調べると、モ
スクワを17時06分に出発した列車は、7日目の22時05分(現地時間8日目の5時05分)にウ
ラジオストクに着きます。直通で148時間59分ですか。 

長距離バスについてニキーチンさんから詳細なフォローを頂いておりますが、小生はカザ
ンのバスターミナルでトルコのイスタンブール行きのバス乗り場を見ました。
1996年のことで、今でもあるか否かは存じませんが、何所を経由して行くのか疑問ですが
、ヴォルガ沿いに南下して、そのままカフカスを越えてグルジア経由の黒海東廻りなのか
、それともウクライナ、ルーマニア、ブルガリアを経由しての黒海西廻りなのか、考えれ
ば面白そうです。
因みに、このバスターミナルから小生の乗ったアリメチエフスク行きのバス(8時間を要
す)は、ベンツでした。いつのベンツかは知りませんが(笑)、乗り心地は快適でした。

ただ、爆笑の恐怖の体験は帰路のバスで、途中ナベレージヌイエ・チェルヌィでトイレ休
憩があったのですが、2時間ほどしてから急に用を足したくなり、次の停車はカザンまで
ノンストップとのこと。
一面の平原の彼方に小高い丘が見え、きっとあの丘を越えればカザンの街が・・と思いき
や、丘を越えればまた一面の平原。またその彼方に小高い丘が・・・、やっとカザンと思
いきや、丘を越えればまた一面の平原。またその彼方に丘・・・の繰り返しで、カザンに
入った頃には気絶しそうになっていました。膀胱炎予備軍ですな。

No.281ニキーチンさんからのレスにカザンの街の様子がありましたが、初めてカザンに訪
れた1996年と2000年のそれは見違えるような雰囲気がありました。特に

: ヨーロッパ風の歩行者天国沿いにトルコ料理店が軒を並べていたり

という描写は、カザンの中心街バウマン通りかと推測しますが、この通りの変貌ぶりたる
や、アジアの古びた斜陽商店街が一挙にお洒落な欧風歩行者天国に様変わりといった様相
で、びっくりしました。

それにしても、カザンも魅力ある都市ですね。
人口規模ではニジニの方が若干大きいですが、街の活気の点ではカザンに軍配が上がるの
ではと感じました。
No.283 Re2: ロシアの地図 knockeye さん [2004/05/18(火)02:52:26]
私のサイトを見て頂いてありがとうございます。

: それにしてもロシアをバイクで横断とは、もの凄いご体験をされましたね。(感服)

このところ、けっこうロシア経由で、世界に旅立つライダーが増えてきたみたいです。実
は、去年(2003年)ウラジオストーク〜サンクトペテルブルグ間の道路が全線開通し
たみたいです。Northern Walkersというサイトを主催されている永原夫妻が、この道を通
ってロシア横断を果たしたそうです。まだ、「曲がりなりに」と言う感じらしいですが、
今年は去年よりましだろうし、そうなると、日本のライダーも旅立ちやすくなると思いま
す。

: 今から14年ほど前に、確かナホトカからロシア(当時はソ連)を横断して、フィンランド
: 国境へバイクで横断した日本人のグループのテレビ番組を見ましたが、

それは、もしかしたら、日本人ふたりとロシア人一人のグループたったでしょうか?私も
その記事をバイク雑誌「ガルル」で見ています。あの記事に触発されたと行ってもいいか
も知れません。

: その時、唯一バイクの通れなかったアムール州シマノフスク―チタ州シルカ間(だったかな?)のみシベリ
: ア鉄道の貨車を利用しておられたように記憶していますが、knockeyeさんは更に大廻りで
: ヤクーツクからレナ河を上ってウスチ=クートへ抜けられた由、大変なご苦労であったと
: 察します。

シマノフスク〜チタ間は、バロータという大湿地帯で、ここを抜ける苦労については、マ
ーク・ジェンキンスという人の書いた「大シベリア横断記」を読んで、びびってしまいま
して、どこかに道がないかと、あえて大回りをしたのですが、レナ川上りはこの旅では楽
しい思い出になりました。
: 

: 実は小生もやや古いですが同じ地図を2冊(1996年版、1999-2000年版)持っています。

よく手に入りましたね。ロシアの地図の入手しがたさに関しては、日本だけでなくて、ヨ
ーロッパでも同様なようです。ウラジオストークで同船したイギリス人も苦労したそうで
す。

: ただ一つだけ述べさせて頂ければ、都市名の日本語表記で2点、「ナベ・チェルニ」「ニ
: ジ・ノブゴロド」はどちらも日本人にとって馴染みのない都市だけに、出来るだけフルネ
: ームに近い「ナベレージヌィエ・チェルヌィ」「ニジニ・ノブゴロド」と書かれた方が判
: り易いのではないかと思います。
: というのは、地図を見るにしてもリンク地図がロシア語だけに、日本語で書かれた市販の
: 地図と見比べながら、お書きになった紀行文を楽しまれている人も(特に地理好きなら、
: まずそうするでしょう)少なくないと思うからです。どうぞご参考までに。

ありがとうございます。早速訂正しておきます。ところで、「ナベレージヌィエ」という
言葉は一般名詞なのでしょうか?途中の道路標識で、ただ、「ナベ」になっているところ
もあって、そっちの方がわかりやすいので、(というか、そっちしか覚えられなかったの
ですが)ああいう表記にしてしまいました。


: ロシアで入手
: した面白い地図をUPしてみたいのですが、著作権の問題などもクリアする必要があるの
: では、と二の足を踏んでいます。

私もその点は、ちょっと引っかかってはいたのですが、何しろ、これだけ入手しにくいと
、著作権には抵触しても、売り上げには影響ないだろうと判断しました。ロシアの地図が
、出回るようになれば、必要なくなるでしょうしね。


: 
: これからもどうぞ宜しく御願い申し上げます。では。

こちらこそ、よろしくお願いします。
No.284 大自然に抱かれて господин Ондрей Заков [2004/05/18(火)11:47:11]
ニジェ様、ニキーチン様、レス諸々有難うございます。

>米東海岸方面の航路の中継はどうなっているのでしょうか

距離的に直行便でしょうか。時刻表の国際航路欄を見た限り
特に中継に関する記述は無さそうですが。

>極東ロシアの中間地点に位置するクラスノヤルスク

クラスノヤルスクというと、97年の橋本・エリツィン会談の
開催地ですが、むしろエニセイ川堰堤の壮大さを想起します。
堰堤湖周辺は見事な景勝地だそうで、船上で行われたという
上記会談も、あるいはこの湖上での話だったのでしょうかね。
(フラーツク水力発電所というものもありましたが、上記の
堰堤とは無関係でしょうか?)

>このあたり一帯は油田地帯となっており

社会科で習った旧ソ連の製油地帯というと、バクーですかね。
その他、石炭のドネツ、鉄鉱石のクリボイロクなど記憶して
おりますが。

>座席の背もたれが「バキッ」と音をなして壊れる

そのうち、輸送効率を重視して、航空便初のロングシートを
導入したりして(笑)………よく考えて見ると軍用機で既に
採用されていますね。さすがに吊革は無いでしょうけど(笑)

>いくら新鋭機を導入しても、

その新鋭振りゆえに、名古屋空港における中華航空機事故が
あったのでしょうけれど、この場合はそれ以前の話ですね。

>利用には一定の忍耐力を必要とします。

ロシアは該当しないと思いますが、アングラ系海外旅行通の
間では「世界三大○○○○」的に位置づけられたバス路線が
持て囃されている様で、その筆頭格と思しきが、ヒマラヤの
界隈で国境の峠を越える国際路線バス(チベット−ネパール
だったかな?)なのだそうです。とにかく乗り心地が余りに
アグレッシブで、衝撃次第では骨折の危険もあると、何かの
紀行本で一瞥しました。

>これまた日本の尺度では考えにくい話です。

遠距離移動で鉄道の利用度が高いという事は、比較的長期の
休暇が取り易い社会構造や、速達性に固執しない、ある意味
鷹揚さの様な背景もあるのでしょうか。

日本では鉄道の相対的な地位低下で、駅を中心とした市街と
郊外型商業集積地との乖離が問題になっていますが、在日暦
数十年の西独出身の知人は、もう少し鉄道を重視した社会的
インフラの再構築があっても良いのではないか、というのが
持論でしたっけ。

>膀胱炎予備軍ですな。

尿意に苛まれなければ、雄大な自然を楽しめたでしょうにね。
国内の高速路線バスで移動中、同様の事情からバスが停車し、
大自然の中で用を足した御仁がいましたが、宗教的な戒律が
厳しい海外でこういう事になったら、大問題なのでしょうね。
「野外所用」は日本文化の一端、と皮肉る向きもありますが。
(詳しい状況は不明ですが、白昼都区内で青空の下、大きな
用を足した悪友がおります。)

「共産圏関連ジョーク」なるサイトを見つけました。どうも
2ch系のネタを再編集したものの様で、えげつない表現等も
散見される一方、エスプリの効いた頓知に、思わずニヤリ。
No.285 露西亜、ソ聯を担当する部局の変遷 二見の客 さん [2004/05/18(火)23:13:32]
先ごろ欧亜局の変遷について紹介しましたが、戦後だけでは物足りなく感じるようになり
ましたため、一見と名乗った前言を遵守することもできず、再度出没いたしました。
何とぞご容赦いただくとともに、ご笑覧ねがいます。

1920年(大正9年)10月
地域割り局が初めて設置され、亜細亜局と欧米局が発足
欧米局は3課編成で、第1課−ロシア、第2課−欧州・アフリカ、第3課−南北アメリカ

1924年(大正13年)12月
欧米局は2課編成に改められ、第1課はロシアとその接壌諸国、チェッコ・スロヴァキア
、ハンガリー、セルブ・クロアート・スロヴェーヌ、ブルガリア、アルバニア、ギリシア
を所管、第2課はその他の欧米諸国を所管

1934年(昭和9年)6月
亜細亜局は東亜局に改称、欧米局は欧亜局と亜米利加局に分割
欧亜局は2課編成で、第1課はソ連、フィンランド、エストニア、ラトヴィア、リスアニ
ア、ポーランド、トルコ、ペルシァ、アフガニスタンを所管、第2課はその他の諸国を所
管

1940年(昭和15年)11月
南洋局が新設され、欧亜局からは東南アジア域内にある欧州諸国の支配地域とオーストラ
リア、ニュージーランドを移管
欧亜局は3課編成で、第1課がソ連とフィンランドを所管

1942年(昭和17年)11月
大東亜省の新設に伴い東亜局と南洋局の所管地域はオーストラリアとニュージーランドを
除いて同省に移管し、地域割り局は統合して政務局を設置
なお、大東亜省所管地域についても純然たる外交事項については引き続き所管
政務局は7課編成で、第3課が欧亜局第1課の業務を承継し、ソ連とフィンランドを所管

1949年(昭和24年)6月
運輸省からの国鉄の分離、逓信省の郵政省・電気通信省への分割などと同時期の行政機構
整備において外務省では政務局を復活させたが、課ごとの所掌事務は地域別ではなく事項
別

1951年(昭和26年)12月
平和条約の発効に備えて地域割り局が復活し、アジア局、欧米局を設置
欧米局は5課編成で、第5課がソ連を含む東欧諸国の他、トルコ、イラン、アフガニスタ
ンを所管
1955年(昭和30年)3月、日米安全保障を担当する課が増設されたため、第5課は第6課に
名称を繰り下げ

1955年(昭和30年)7月
欧米局内に中東諸国を一括して所管する課が新設されたので、第6課の所管国はソ連を含
む東欧諸国に限定

1957年(昭和32年)4月
欧米局をアメリカ局と欧亜局に分割し、欧亜局は4課編成で、第3課がソ連を含む東欧諸
国を所管

1958年(昭和33年)5月
課名称の付与方法が変更され、欧亜局第3課は欧亜局東欧課に改称

1969年(昭和44年)1月
東欧課はソ連を所管する東欧第1課とその他の東欧諸国を所管する東欧第2課とに分割

1981年(昭和56年)4月
東欧第1課はソヴィエト連邦課に、東欧第2課は東欧課に、それぞれ改称

1992年(平成4年)1月
ソヴィエト連邦課はロシア課に改称

1994年(平成6年)6月
ロシア課内に課に準ずる組織として新独立国家室が置かれNIS諸国を所管

2001年(平成13年)1月
英連邦の観点から従来より欧州担当部局で所管することの多かった大洋州を欧亜局からア
ジア局に移管して同局をアジア大洋州局に改称し、欧亜局は欧州局に改称
同時に東欧課を中・東欧課に改称したが、これは所管国に変動があったのではなく、東欧
諸国という呼び名が自由主義陣営との対立構造から捉えられた冷戦時代の遺物として受け
取られる面が多いのを避けて、最近は中欧ないし中東欧諸国と呼ばれることが多くなった
ことを受けた措置
なお、いわゆるバルト3国は西欧第2課の所管


時系列に項目を羅列するというのはいかにも無味乾燥で、しかも日本国内の行政機構は当
サイトの対象外の事項でしたのに、貴重な容量を長々と消費してしまい失礼いたしました
。今回で私が提供できる話題の守備範囲はテリトリーをほぼ使い果たした感がしておりま
すので、この先、「三見」はあるまいと存じております。
No.286 Re3: ロシアの地図 ニジェガロージェッツ [2004/05/19(水)00:17:59]
knockeye さん、こんばんは。ロシアの道路事情など、詳しいレス有難うございました。

: それは、もしかしたら、日本人ふたりとロシア人一人のグループたったでしょうか?私も
: その記事をバイク雑誌「ガルル」で見ています。あの記事に触発されたと行ってもいいか
: も知れません。

どうやら別グループのようです。
小生が見たのは当時防衛大学校で教鞭をとっておられた瀧澤一郎氏一行の6名のグループ
でした。NHKで「ソビエト大横断」というスペシャル番組になった他、1991年に書籍も
出版されています。
(文芸春秋 「ソビエト大横断一万四千キロ」 瀧澤一郎著)


: ロシアの地図の入手しがたさに関しては、日本だけでなくて、ヨ
: ーロッパでも同様なようです。

手元にあるロシア地図類のすべては、ロシア国内で購入したものです。
中でも一番の品揃えはモスクワのノーヴイ・アルバート通りの「ドーム・クニーギ」。そ
の他、露店でも結構売られていました。サハリンでは博物館で地図が売られていました。
元々軍事用だとか言われる20万分の1の地形図が、州ごとに編集した地図帳として売られ
ているのが詳細で見やすくお薦めです。
日本国内だと、ロシア・ソ連書籍の専門店「ナウカ」に行けば、地図に関しての品揃えは
イマイチですが、掘り出し物に当るかも知れません。

テレビでは前出の瀧澤氏の場合は、アメリカの航空地図(100万分の1、か50万分の1)を
使っているように見受けました。

: ありがとうございます。早速訂正しておきます。ところで、「ナベレージヌィエ」という
: 言葉は一般名詞なのでしょうか?途中の道路標識で、ただ、「ナベ」になっているところ
: もあって、そっちの方がわかりやすいので、(というか、そっちしか覚えられなかったの
: ですが)ああいう表記にしてしまいました。

申し訳ありませんが、実は小生も間違っていました。(汗)
アクセントを忠実に再現すると「ナベレージヌィエ」ではなく、「ナーベレジヌィエ」が
正しいです。
よく川や海などの水辺にある堤防に沿った道路の名に「ナーベレジナヤ」と言うのがあり
ますが、これは河岸通り(または海岸通り、湖岸通り)と訳される普通名詞です。
元々は「ナーベレジヌイ」という形容詞で、「岸にある」とか「岸近くにある」といった
意味です。
タタルスタンの「ナーベレジヌィエ・チェルヌィ」の場合、「チェルヌィ」が「小舟(チ
ョールン)」の複数形ということで、形容詞「ナーベレジヌイ」も複数形「ナーベレジヌ
ィエ」となります。直訳すれば「岸近くの舟々」ですね。

ところでロシアの地名には、このように形容詞+名詞の2語からなるものが多く、道路標
識や地図上では形容詞を省略形で書くことが多いようです。
恐らく「ナーベレジヌィエ チェルヌィ」も、完全な形で
“Набережные Челны”ではなく、“Наб. Челны”と書かれてい
たのではないでしょうか。
ロシア人はこう書いているだけで「ナーベレジヌィエ チェルヌィ」と読みます。
同じように“Кр. Кут”と書かれていても「クラースヌイ・クート」と
読みます。
間宮海峡に面したハバロフスク地方の「ソヴィエツカヤ・ガヴァニ」を日本人が「ソフガ
ワニ」と呼んでいるのも、もとの“Советская Гавань”を省略した形
“Сов. Гавань”をそのままカタカナ化したのではないかと思っています。

一般に地図でよく省略される形容詞を列挙しておきます。
(読み方は男性形のみ記しておきます。)
元の形(女性,中性,複数形)[読み方]/省略形
Белый(-ая,-ое,-ые)[ベールイ]/Бел.
Большой(-ая,-ое,-ые)[バリショーイ]/Бол.またはБ.
Великий(-ая,-ое,-ые)[ヴェリーキー]/Вел.
Верхний(-яя,-ее,-ие)[ヴェルフニー]/Верхн.またはВерх.
Красный(-ая,-ое,-ые)[クラースヌイ]/Крас.またはКр.
Малый(-ая,-ое,-ые)[マールイ]/Мал.またはМ.
Нижний(-яя,-ее,-ие)[ニージニー]/Нижн.またはНиж.
Новый(-ая,-ое,-ые)[ノーヴイ]/Нов.
Старый(-ая,-ое,-ые)[スタールイ]/Стар.またはСт.
Чёрный(-ая,-ое,-ые)[チョールヌイ]/Черн.またはЧер.

蛇足ですが、地図帳には大抵の場合こういった情報を凡例として列挙しているページがあ
ります。knockeyeさんのお持ちの地図帳にも、189ページ辺りに“САКРАЩЕНИЯ
”(短縮)というのがないでしょうか?
どうぞご参考までに
No.287 Re4: ロシアの地図 アファナーシー=ニキーチン さん [2004/05/19(水)02:39:34]
: 元々軍事用だとか言われる20万分の1の地形図

州別の20万分の1シリーズ、ニジェガロージェッツさんのご指摘で見てみたら、出版社名
は「第439中央実用軍事地図工場」(439ЦЭВКФ)…。ものすごい名前ですね。
最近は道路地図が多数出版されているので、クルマや、knoceyeさんのようにバイクで旅
行する場合も少しはプランニングしやすくなったのではと思います。私も市内の道路地図
は活用してます。

Заковさん、「ロングシート機」の搭乗は難しそうですが、ボックスシートのソ連機
は乗れますよ。富山とウラジオストクを結ぶウラジオ航空のヤコブレフ40という小型ジェ
ットがありますが、数年前に利用した時は機内はボックスシートで後ろ向きに飛びました
。今でもあのままかどうかは分かりませんが。
No.288 チャイコフスキー & ベートーベン & 葛飾北斎 господин Ондрей Заков [2004/05/19(水)16:03:42]
旧ソ連の航空関連の話題が振られた矢先、昨日のTV報道で
中国は新疆ウイグル自治区からアゼルバイジャンへと向った
イリューシン貨物機が、ウルムチ国際空港を離陸した直後に
墜落した様ですね。またNHK「クローズアップ現代」では
ロシア・マフィアの暗躍振りが特集されていた様子で、少々
暗澹たる思いです。

>ボックスシートのソ連機は乗れますよ。

家族やグループ客用でしょうか。ボックス・シートとなると
旅の相棒としてキヨスクの冷凍ミカンは欠かせません(笑)

さて、昨夜は高雅にもチャイコフスキーの名曲を聴きながら、
ブランデー・グラスを傾けておりましたが(と言うのは嘘で、
スルメイカをつまみに、カップ酒を開けておりました/笑)
曲目は、季節感を踏まえた12箇月分の小曲からなる「四季」。
元々はピアノ組曲ですが、チャイコフスキーの孫弟子にして
ソ連時代の名指揮者、スヴェトラーノフが師事したと思しき
アレクサンドル・ガウクが管弦楽曲に再編成したものです。

11月の主題は「トロイカ」ですが、日本で良く知られている
冒頭歌詞「雪の白樺並木……」のそれとは別物で、その他に、
歌詞を伴わないアップ・テンポの曲を聴いた事があり、元々
ロシアの三頭立ての馬そりを意味する「トロイカ」を名乗る
曲は案外多いのかも知れませんね。ちなみに「建て直し」を
意味する「ペレストロイカ」との関連やいかに?

上記「雪の白樺並木……」の楽曲に関して、個人的に好きな
曲ではありますが、曲調と歌詞がどこか合わない様な印象を
幼少時より持っていましたが、数年前観たNHK「日本人の
質問」で、元の歌詞は生活苦を切々と歌い上げたものと聞き、
漸く得心しました。東大音感合唱研究会による訳詩を見ると、
「地主のやつめ」「金につられて/あの娘は嫁に行く」など
貧窮問答歌よろしく救いの無い文言が散見され、その当時の
社会情勢が垣間見える様です。一方「雪の白樺並木……」は、
敗後の荒廃した日本に、健康的かつ明るい歌を広める目的で
楽団カチューシャがアレンジしたものなのですね。

全くの余談ですが「トロイカ」と聞くと、類似の語感として
「エロイカ」を連想します。ナポレオンに献上する目的から
作曲されるも、当人の仏皇帝就任に幻滅したベートーベンが
急遽「用途変更」をされた交響曲第三番「英雄」の事ですが、
検索エンジンで「エロイカ」を調べると…………あらいやだ!
(烏賊ではなく蛸なら、葛飾北斎風なのですけどね)

………オヤジなオチで失礼しました。
No.289 まとめレス ニジェガロージェッツ [2004/05/20(木)01:42:12]
遅れがてらのまとめレスで恐縮ですが・・・皆さんの面白いレスの数々に深謝!

No.279 Ондрей Заков さん
: 「ミグ」と聞くと、1976年の函館空港を連想してしまう中年・
: ザーコフでした。

1976年9月6日のベレンコ事件ですね。
沿海地方チュグエフカ空軍基地から、当時の極秘新鋭戦闘機ミグ25乗り、超低空飛行で千
歳空港を目指しながらも、方向を若干誤り、偶然函館空港に燃料ギリギリで不時着した事
件でした。
もし、正確に千歳に向かっていたら、燃料切れで札幌辺りに墜落していたかも・・と考え
ると恐怖です。

一方ソ連側から見ると、戦闘機に燃料を満載していると北海道などの西側の飛行場へ到達
可能であることから、第二のベレンコ事件を恐れるあまり、国境に辿りつけない程度に燃
料補給を控えるようになったとか。


No.284 Ондрей Заков さん
: 社会科で習った旧ソ連の製油地帯というと、バクーですかね。

タタルスタン南東部からバシコルトスタンにかけての油田地帯は「第二バクー」と呼ばれ
ていたようです。
この辺りはそこらへんの道端で普通に石油が採れている雰囲気です。

: 遠距離移動で鉄道の利用度が高いという事は、比較的長期の
: 休暇が取り易い社会構造や、速達性に固執しない、ある意味
: 鷹揚さの様な背景もあるのでしょうか。

人と仕事によりけりでしょうが、国民性からするとご指摘の通りだと思います。
日本にいるロシア人に聞いた話では、新幹線の速さと便利さには最初は感動ものだそうで
すが、そのうち気忙しく感じるようになり、ロシアの列車が恋しくなるそうです。


No.285 二見の客 さん
露西亜、ソ聯を担当する部局の変遷の詳細レス有難うございました。
戦前からの外務省、大東亜省の部局の変遷、なかなかお目にかかれない貴重な情報で、そ
の時代背景も垣間見れて興味深いです。

: 時系列に項目を羅列するというのはいかにも無味乾燥で、しかも日本国内の行政機構は当
: サイトの対象外の事項でしたのに、貴重な容量を長々と消費してしまい失礼いたしました

いやいや、こういう「変遷もの」は大好きですから、どうぞ御気に為さらず、またのご登
壇期待しております。


No.288 Ондрей Заков さん
: ロシアの三頭立ての馬そりを意味する「トロイカ」を名乗る
: 曲は案外多いのかも知れませんね。ちなみに「建て直し」を
: 意味する「ペレストロイカ」との関連やいかに?

区切る場所が違い、無関係でしょう。
「トロイカ」(тройка)は元々数字の「3」の意味で、例えば学生の成績表(5段
階)で「トロイカ」といえば、日本のそれでは「可」ですかね。4は「チトヴョールカ」
で「良」、5は「ピチョールカ」で「優」といったところでしょうか。
またバスや市電で「3系統」のことを「トロイカ」と言ったりします。
そこから転じて、三頭立ての馬車、馬そりを「トロイカ」と言うのですが、この用法のみ
日本語に入ったと言う事でしょう。

一方の「ペレストロイカ」は、「建築」や「構築」を意味する「ストロイカ」(стор
ойка)に、「再」とか「改」を表す接頭辞「ペレ」(пере)を付けたもので、「
再建築」とか「建て直し」を意味するものです。
No.290 Re5: ロシアの地図 ニジェガロージェッツ [2004/05/20(木)02:12:05]
No.287 アファナーシー=ニキーチン さん

: 出版社名は「第439中央実用軍事地図工場」(439ЦЭВКФ)…。ものすごい名前ですね。

有難うございます。早速手持ちの数冊ある州別20万分の1地形図地図帳を確認しました。
すると(サハリン州の1冊を除き)ご指摘のとおり「第439中央実用軍事地図工場」の出版
でした。
欧露部の各州の地形図はここから出版されているようですね。
http://www.yellowpages.ru/index.html/qu10/bo1965198

それにしても、如何にもロシアらしい迫力ある名前ですね。(笑)
考えてみれば軍事用ということで、ソ連時代にはとても入手不可能な代物で、何かの間違
い(か幸運)で手に入れてたとしても、出国時の手荷物検査(ソ連時代には殊更に厳重に
チェックしていた)で見つかれば、即、取調室直行ものですね。

地図好きの小生などは、バスや列車で移動する際には必ずこの地形図と景色を見比べるの
が常でしたが、思えば時代が時代ならこんなことをしていると後に手が回ります。(汗)

ところで、1993年発行のサハリン州の20万分の1地形図は「軍事地図工場極東局」の出版
でした。
そのうち、サハリン島の部分はオハ市のサイトで公開されています。
http://www.okhacity.ru/reference.php?action=1

他にネットサーフィンでごちゃごちゃやっていると、極東南部各州の20万分の1地形図(
もちろん「軍事用」です!)を掲載しているサイトを発見しました。
http://green.bdk.com.ru/index.htm

ロシア語が読めない人のために、各州地形図の目録ページも出しておきます。お楽しみ下
さい。地図目録図をクリックするとそこの20万分の1地形図が見れられます。
(地図好きの人は、睡眠不足にならないよう、程ほどに・・・)

沿海地方
http://green.bdk.com.ru/map/primorye/index.htm
ハバロフスク地方南東部
http://green.bdk.com.ru/map/khabarovsk_so/index.htm
ハバロフスク地方中央部およびユダヤ自治州
http://green.bdk.com.ru/map/khabarovsk&eao/index.htm
サハリン島
http://green.bdk.com.ru/map/sakhalin/index.htm
千島列島
http://green.bdk.com.ru/map/kuril/index.htm
カムチャツカ州南部
http://green.bdk.com.ru/map/kamshatka_s/index.htm

市街図はありませんが、それでもかなり詳細です。コムソモリスク=ナ=アムーレも出て
いますので、No.256 メルニクさんもご参考になさって下さい。
No.291 Re: No.288 господин Сомпин Сомринович Пражний [2004/05/20(木)03:53:28]
 Ондрей Заковさん
: 上記「雪の白樺並木……」の楽曲に関して、個人的に好きな
: 曲ではありますが、曲調と歌詞がどこか合わない様な印象を
: 幼少時より持っていましたが、数年前観たNHK「日本人の
: 質問」で、元の歌詞は生活苦を切々と歌い上げたものと聞き、
: 漸く得心しました。
1980年代〜1990年代初期にNHK-FMで「ひな祭り」の歌(正式な題名を知りません)の南米
(アルゼンチンだったと思います)ヴァージョンが放送されました.ラテン・アメリカの
香り漂う男声コーラスで歌われた歌詞は親のない子どもの悲しさを歌ったものだそうです
.日本語ヴァージョンがさほど暗く悲しい雰囲気を持たないのは,平べったい発声の子ど
もの声だからかも知れませんね.
ロシアとは直接の関係はありませんが,近代日本人の旋律に対する感覚が見えてきそうで
す.
No.292 名曲の夕べ господин Ондрей Заков [2004/05/20(木)09:39:28]
>親のない子どもの悲しさを歌ったものだそうです

考えて見れば、これも歌詞内容と旋律に少々違和感を感じた
例ですね。地元では「明かりを灯けたら消えちゃった」的な
替え歌を割と広範に聞いたものですが(もしかして全国的?)
一方、わざと長調に変換して歌う例もあるのだとか。

旋律も歌詞内容もともに暗い、という日本的な歌曲としては
「赤い靴履いてた女の子……」が想起されます。聴いた当初
「異人さん」を「曾爺さん」と聞き違えた間抜けな私ですが、
その歌詞内容は、北海道留寿都への入植に際し、愛娘を米国
宣教師に養女として託し、その娘は渡米直前に結核を患って
九歳で他界し、母娘が再会する事は無かった、という哀しい
実話に基くものなのですね。

長調と短調を置き換えた作例としては「ピアニスター」こと
吉田洋氏が「展覧会のエッ?」の中で、重苦しい「蝶々」や
明るく溌剌とした「葬送行進曲」など、抱腹絶倒の御遊びを
披露していますが、基本旋律が長調、短調と二通りある例は、
著名な管弦楽曲でも散見されます。

チャイコフスキーの交響曲では最も好感する第五番がそれで、
第一楽章冒頭の物悲しい旋律が、終楽章の大団円で高らかな
長調のファンファーレとして再現されるパターンですね。

ロシア関連外での典型例は、ビゼー「アルルの女」でしょう。
第一組曲冒頭にて奏でられる、仏はプロヴァンス地方の民謡
「三人の王の行進」の厳かな旋律が、第二組曲の最終部分で
上記例と同様、長調のファンファーレ風に再現されます。

なお、私が所蔵する第五番のCDでは「ヴォエゴーダ」なる
交響的バラードも収録されています。帝政ロシア下の官吏の
一種らしいのですが、うまい訳出が難しい様で「地方長官」
「地方官吏」など、邦題は様々です。

音楽ネタ序でに、脱線気味ながら昨夜感じ入った話をひとつ。
フィンランド人を奥様に娶られるなど北欧に造詣の深い事で
知られるピアニスト館野泉さんが、脳溢血で右手が不自由に
なって以降の追跡取材を、TVニュースの小特集で見ました。
なんと、左手だけで弾ける曲を以てリサイタルを開いており、
これが実に聴かせる旋律でした。確かに、流麗な旋律運びは
右手より左手の方が運指が楽な場合が多く、なるほどと妙に
納得した気分になる「なんちゃってピアニスト」の私ですが
今後もますます御活躍して頂きたいものです。

以上、思い切り脱線した話題で、大変失礼致しました(汗) 
No.293 都市名当てクイズの答え ニジェガロージェッツ [2004/05/20(木)20:49:31]
もう2ヶ月前になりますが、拙稿No.194で出題した「都市名当てクイズ」が過去ログへ移
動となります。
そろそろこの辺りで正解の発表に移らせて頂きます。

問題文は
: 「最も大きな国の最も大きな島の最も大きな都市。***のことをこのように言ってもよい
: でしょう。」 
: さて、「***市」はどこでしょうか?
でした。

「最も大きな」が続いていますが、何に対して大きいかが謎の部分でしたが、

: ロシア語で書かれたある都市の紹介文からの抜粋です。

とあるように、これをロシアの都市として考えると
「最も大きな国」=ロシア
となり、これはサイズ、つまり面積と推測できます。
ここから、「ロシアで最も大きな島」=サハリン島
更に、「サハリン島で最も大きな都市」=ユジノサハリンスク

ということで、正解は「ユジノサハリンスク」でした。
No.195 ニケさん、お答え頂き有難うございました。 

(日本人の立場で、この都市を「ロシアの都市」と言って良いものかどうか、という微妙
な問題には、ここでは触れずに置きましょう)

原文は「ロシア人の目で見た豊原」
“ТОЁХАРА глазами россиян” Сергей Федорчук
 著
という日本統治時代の豊原(ユジノサハリンスク)についての歴史を述べた書物の著者か
らの「前書き」の冒頭に書かれている
Самый большой город 
самого большого острова 
самой большой страны. 
Так можно сказать про Южно-Сахалинск.
「最大の国の最大の島の最大の都市。ユジノサハリンスクのことをこのように言ってもよ
いでしょう。」 

という一文です。
著者からの前書きは更にこう続きます。

「まだ創設100年を過ぎたばかりの比較的若い都市だが、二度も名前を変え、どこへ移っ
たわけでもないにもかかわらず、四つの国家、つまりロシア帝国、日本、ソビエト連邦、
そしてCIS諸国の中のロシアに属し、現在に至っている。
ヴラジミロフカ ― 豊原 ― ユジノサハリンスク
最近までこの都市の伝記は、あたかも書物から樺太庁の40年に渡る時代のページを破り取
ったかのようであった。
(中略)
私たちは、レーニン通りが“大通り”と呼ばれ、サハリンスカヤ通りが“真岡通り”、共
産主義大通りが“神社通り”と呼ばれていた時代のユジノサハリンスクについてよりも、
遠い古代都市ポンペイについての方が良く知っている。
もちろん、我々が持っている情報の、すべてではないにしても多くが未知の言葉―日本語
で書かれている。
しかし、豊原が一度ではなく、ロシア人に訪れられ、また残留者たちの生活の中での豊原
についての言及があるという事実は、少なくとも知られていると思う。
自分の都市を愛する ― つまり、その歴史を知り、そして本書を読み、あなたがたの多
くが更に強くこの島都を愛することを願う。」

と括られています。
1994年に同地を訪れた際、ホテルの売り子さんに購入を勧められた一冊でしたが、ソ連崩
壊後、早くも豊原について書かれた書籍が出版されたことに時代の移り変わりを感じた小
生でした。 
No.294 コムソモレスク・ナ・アムーレ ユジノサハリンスク 瀧澤さんの本 knockeye さん [2004/05/22(土)04:03:07]
 
ご指摘ありがとうございました。早速、「ナーベレジヌィエ」になおしておきました。ま
た、ご紹介頂いた本、面白そうなので、アマゾンを利用して注文いたしました。こんな人
がいたとは知りませんでした。
ロシアをバイクで横断した人で、私が知っているのは、先に言った3人と、1998年の
ユーラシア横断隊、2001年の滝野沢夫婦、と言う具合です。

私は、1999年にも少しだけロシアを走っていまして、その時には、コムソモレスク・
ナ・アムーレにも行きましたし、バニノから鉄道フェリーに乗ってサハリンにも渡りまし
た。コムソモレスクの市街図持っていたのですが、何しろ古いことなので、なくしてしま
ったようです。残念。
No.295 芸術面における南下政策? господин Ондрей Заков [2004/05/22(土)12:32:27]
昨日購入した雑誌に記述があったので思い出したのですが、
「千と千尋の神隠し」も高く評価されたベルリン映画祭で
最優秀賞を獲得した「グッバイ・レーニン」なる大ヒット
映画があります。

1989年、西側に亡命した夫への反発から、愛国主義に走る
東独市民の女性は、息子が民主化要求デモに参加した事を
心痛するあまり臓発作を起こし昏睡に陥ります。数箇月後、
昏睡から冷めた時、ベルリンの壁は既に崩壊し街の様相は
西側経済の洗礼から一変しているのですが、発作の再発が
命取りになると医師から言われた孝行息子は、東独崩壊の
衝撃を与えまいと、東独体制が継続している様に装うべく、
涙ぐましい努力を続けるという、様々なユーモアや感動が
交錯した内容だそうです。

以前、鉄道誌でベルリンのSバーンの特集記事を読んだ時
東独側に「レーニン・アレー」という駅名がありましたが、
それならば、ソ連では「マルクス」を冠した固有名詞類は
存在したのでしょうか。

思想信条としての社会主義には、特に興味はありませんが、
その一方で芸術面、とりわけ音楽で一目を置くべき存在が
ロシアと考えている私は、鑑賞頻度もチャイコフスキーが
ダントツです。昨夜は「柿の種」で一杯飲んで「イタリア
奇想曲」を聴いておりましたが(終盤を聴くと「ねるとん
紅鯨団」のスポンサーCMの台詞「体育会系、底力!」を
思い出しますね)いつ聞いても地中海風味が旨く描かれた
名作だと感じます。

同じロシアの名作曲家、リムスキー・コルサコフの場合は、
現地の風味を旨く出した「スペイン奇想曲」が有名ですが、
「イタリア〜」の楽想が、押掛け女房に翻弄された傷心を
癒す為の保養旅行に基くものという事を考慮しても、その
背景には、温暖な南欧に対する一種の憧憬が存在する様に
思えます。これも帝政以来の「南下政策」の一環かな?

ハチャトリアンも、代表的作品である「スパルタクス」や
「バレンシアの寡婦」で南欧風味の情景を描いていますが、
アルメニア出身という地域性ゆえか、コサック・ダンスに
通じる民族舞踊的アップ・テンポの曲も少なからず含まれ、
前二者に比べると、明らかに特徴的ですね。

「スパルタクス」と並ぶ代表的作品「ガイーヌ」といえば、
「剣の舞」が有名ですが、実はこれ、幕間の関係で後から
帳尻合わせ的に付け足した小曲が、最も有名な旋律として
ハチャトリアンの代名詞的な存在になってしまったという、
サン・サーンスの「動物の謝肉祭」的な存在なのだとか。
No.296 コムソモルスクの地図 ありがとうございます melnik さん [2004/05/22(土)19:34:19]
すごいですね。
簡単に考えていましたけれど、ロシアの地図は本当に貴重なものなんですね。ちょっと旅
行しようと思ってもなかなか大変なのに、バイクで横断とか本当にすごいと思います。
取り合えず本当にお礼申し上げます。
コムソモルスク・ナ・ムーレのボスホークホテルやレーニンストリートがどのあたりかわ
かる方いらっしゃったら、知りたいのですが。お願いばかりですみません。
No.297 レス3題 ニジェガロージェッツ [2004/05/23(日)01:50:47]
こんばんは、真夜中のまとめレスで恐縮です。

No.294 knockeye さん。
: ご指摘ありがとうございました。早速、「ナーベレジヌィエ」になおしておきました。

お手数をお掛けし恐れ入ります。拙サイトの関連ページも「ナーベレジヌィエ」に訂正し
ました。小生のニジニでの滞在先近くに「ヴェルフネヴォルシスカヤ・ナーベレジナヤ」
というヴォルガを望む絶景の通りがあり、毎日のように「ナーベレジナヤ」を歩き、言葉
にも馴染んでいたにも係わらず、「ナーベレジヌィエ・チェルヌイ」については何故か「
ナベレージヌィエ」としていました。先入観とは恐いです。(汗)

: また、ご紹介頂いた本、面白そうなので、アマゾンを利用して注文いたしました。

今でも入手出来そうですか?
1991年9月に出版された古い本なので、巧く手に入れば良いですね。瀧澤氏一行の「ソビ
エト大横断」は、その名の通りソ連時代のもので、knockeyeさんがご経験された「ロシア
」とは全く時代背景が違い、そのあたりを読み比べると面白いかも知れません。


No.295 Ондрей Заков さん
いつも面白いお話有難うございます。
芸術面における南欧文化への傾倒については、欧州の文化がイタリア発のものが多いとい
うことで、南下政策かどうかは判りませんが・・・

: 東独側に「レーニン・アレー」という駅名がありましたが、
: それならば、ソ連では「マルクス」を冠した固有名詞類は
: 存在したのでしょうか。

はい。ヴォルガ下流域のサラトフ州に「マルクス市」も「エンゲリス市」も現在に至るま
で存在しています。
今ではサラトフ州に編入されているヴォルガ左岸の両市一帯には、ソ連初期の1922年から
1941年までエンゲリス市を首都とする「ヴォルガ・ドイツ人自治共和国」が存在しました
。
このヴォルガ・ドイツ人は、ドイツ出身で後のロシア女帝エカテリーナII世がロシア皇族
に嫁いだのに伴って、ドイツ(プロシア)本国から入植した人々を起源としていました。
ロシア革命前のエンゲリス市は「ポクロフスク」と呼ばれ、マルクス市の方は「エカテリ
ネンシュタット」と呼ばれていました。
単に「ドイツ人居住地帯」と言うだけで、ドイツの共産主義者の名を冠したということで
しょう。
この自治共和国は独ソ戦争勃発後に、ナチス・ドイツのスパイ予備軍化するという、在ら
ぬ嫌疑をかけられ、単に行政区画が解体されただけでなく、居住ドイツ人が根こそぎ(そ
れも突然通告から24時間以内に)、中央アジアや西シベリア方面に強制移住され、劣悪な
輸送状況下で命を落とした人々も多かったようです。

No.296 melnik さん。
レス有難うございます。
: コムソモルスク・ナ・ムーレのボスホークホテルやレーニンストリートがどのあたりかわ
: かる方いらっしゃったら、知りたいのですが。

これにはやっぱり市街地図の入手が不可欠ですね。しかしネットで公開されているのを探
すのは難しいかも知れません。
melnikさんが現地に行かれる際には、例えばハバロフスクなどの都市を経由されるものと
推測しますが、そういった道中の街の書店(または露店)で予め求める以外には、現物の
入手は不可能なような気がします。
とりあえずは、コムソモリスクへ行かれたご経験の方からの情報を待ちましょう。 
No.298 おめでとうございます なきら さん [2004/05/24(月)10:34:22]
お久しぶりです。20000ヒットですね!おめでとうございます。
更新履歴を見ていたら、1000ヒットのところに、「なきらさんの書き込みより」とあ
ってびっくり。(ニジェガローツキー・ドヴォールには時々ご訪問していたのに気づきま
せんでした。名前を載せていただいて光栄です。)
ますますのご発展お喜び申しあげます。
No.299 Re: おめでとうございます ニジェガロージェッツ [2004/05/24(月)14:57:23]
なきらさん、お久しぶりです。

拙ニジェガローツキー・ドヴォール20000カウント達成へのお言葉、有難うございました
。

当初は拙サイト見向きもされないだろうと思って、地元神戸のことや天気図のことを含め
て個人の趣味全般で突っ走るつもりでおりました。
震災直後の長田区の焼け野原の写真でも並べてみようか・・などと悪趣味なことさえ考え
ていました。URLアドレスにnizhniyだけでなく、kobeが入っているのはそのためです。
ところが更新を重ねるごとに「ロシア地理サイト」としての過分な評価を頂き、Yahoo!に
も登録されました。
今ではロシアに関連しないテーマを扱うつもりは完全に失せました。これからもロシア・
ネタ一本に絞って運営していく所存ですので、どうぞ宜しく御願い申し上げます。

さて、次はいよいよヤールマルカ300書き込みです。誰がキリ番をゲットするのでしょう
か?
No.300 自身への戒め господин Ондрей Заков [2004/05/24(月)18:11:41]
>No.298 なきらさん

ずどらーすとびちぇ。偽ロシア人Ондрей Заков(オンドレイ
ザーコフ)と申します …… というか、御無沙汰しております
雑魚でございます。「落書き帳」で国内を極めた後、遥かなる
ユーラシアの大地に更なる飛雄の場を求め、数週間ほど前より
当頁に居候しております(笑)私が沈没した後「落書き帳」は
参加者が急に増え、談義内容も健全化かつ充実しつつある様で
何よりの事ですね。そちらへの再上陸予定は現在ありませんが、
今後の御発展を、生温かい目で見守って行く所存です(笑)

>ロシア・ネタ一本に絞って運営していく所存ですので、

脱線傾向が著しい私自身、襟を正したく存じます(大汗)
No.301 Re: 自身への戒め ニジェガロージェッツ [2004/05/25(火)01:59:12]
No.300 Ондрей Заков さん

Здравствуйте! 偽ロシア人 Лженижегородец と申します。
(なんのこっちゃ)
やはり300番ゲットはЗаковさんでしたか。いつもお引き立て有難うございます。

: 脱線傾向が著しい私自身、襟を正したく存じます(大汗)

どうぞどうぞ、お気遣いなく。
ただ小生文化的な話題には無知ゆえ、巧くレスを返せないのが残念ですが、いつも楽しく
拝読させて頂いております。

拙稿No.211で、HPの容量の限界が近い云々述べておりましたが、先日ZAQよりHPの
基本容量を従来の10MBから、一気に5倍の50MBへ大幅拡大するとのお知らせがあり、
当面は容量問題を気にする必要がなくなりました。
容量が10MBギリギリにまで迫っていたので、新規ページ作成を見送っていたシベリア連
邦管区各州の「都市・地区人口データ」も順次UPしていく所存です。
他にも新たにロシアを東西2面に分けた新作地図を製作中ですが、地図が大きい分、なか
なか作業が捗っていません。
また余力があれば、フォトギャラリーを再構築して、写真も大幅に増やしていこうとも考
えております。

容量問題解決ということで、「ヤールマルカ」へも遠慮なくどしどしご寄稿下さい。
No.302 20000カウントおめでとうございました YSK さん [2004/05/25(火)23:40:40]
こんばんは、YSKです。
いつもお世話になっております。

遅ればせながら、20000カウント突破、すごいですね!
今後とも特色溢れるページづくりに邁進いただけますよう、
心よりご祈念申し上げます。

追伸
先ほどは、拙ページにてご祝辞を賜り、ありがとうございました。
No.303 Re: コムソモルスクの地図 ありがとうございます knockeye さん [2004/05/26(水)00:54:58]
: コムソモルスク・ナ・ムーレのボスホークホテルやレーニンストリートがどのあたりかわ
: かる方いらっしゃったら、知りたいのですが。お願いばかりですみません。

こんばんは。knockeyeです。

私が、コムソモレスク・ナ・アムーレで、泊まったのは、確か「ボスハッド」というホテ
ルだったと記憶しています。そこでお世話になったNATA TOURのミーシャの説明では「Thumb
 Up」という意味だそうでした。ハバロフスクとは違って、そんなに大きな町でもなかっ
たと思いますが、なにせ1999年のことですから、今はどうなっているか。

あやふやなことで申し訳ありません。
No.304 NATA TOUR knockeye さん [2004/05/26(水)01:03:22]
あの後、ネットで検索してみたら、「NATA TOUR」のサイトが見つかりました。もしかし
たら、役に立つかも知れません。

http://www.adm.khv.ru/invest2.nsf/tourism/firmseng/natatur.htm

やっぱり住所は、コムソモレスク・ナ・アムーレのボスハッドホテルですね。あのころに
比べと、すごい発展している!40ドル払ってヨット遊びしたのがウソみたいです!
No.305 御礼 ニジェガロージェッツ [2004/05/26(水)01:10:14]
YSKさん、こんばんは。
こちらこそ、嬉しいご祝辞をはじめ、いつもご愛顧有難うございます。

: 今後とも特色溢れるページづくりに邁進いただけますよう、
: 心よりご祈念申し上げます。

こちらは容量問題が解決したこともあって、容量喰いの写真を増やしてみようとも考えて
おりますが、最後のロシア行きからもう4年も経っており、ネタが古いのがいただけない
ですね。

YSKさんも運営に携わっておられるグリグリさんの「落書き帳」に以前投稿した、例えば
「北緯50度線突破! 感動の樺太ホテル列車の旅」などは、写真入りのページにしてUPす
ると面白いかもしれませんが、いかんせん10年も前の旅行ですので、「古い話するな!」
と怒られそうです。(涙)
No.306 ロシアのドイツ人 господин Ондрей Заков [2004/05/26(水)10:49:40]
20000カウント突破ですか。遅ればせ乍ら私からも御祝いを一言。

王室におけるドイツとの姻戚関係や、やはりドイツ系である事を
窺わせる「ペテルブルク」の地名、更には「○○スキー」という
人名の符合性など、ドイツとロシアの歴史的関係も割と深い様に
思えますね。

>中央アジアや西シベリア方面に強制移住され、

この人達はその後どうなったのでしょうか。第二次大戦における
ドイツ人が被った悲劇というと、第三帝国の敗退に伴う、チェコ
ズデーテン地方から引き揚げる際の一幕を想起します。この辺を
巡る戦後処理は、旧東独においては、どの様に行われたのやら。

この辺の歴史的背景を踏まえ、ドイツ史上最悪の連続殺人事件を
描いた漫画「モンスター」は、中々読み応えがありました。
No.307 Re: NATA TOUR ニジェガロージェッツ [2004/05/26(水)21:14:12]
No.303, 304 knockeye さん、お返事が遅くなり申し訳ありませんでした。

コムソモリスク・ナ・アムーレに関しての情報、有難うございました。
実際に現地へ行かれた方の情報だけに、本当に助かりました。

ご紹介頂いた「NATA TOUR」のサイト拝見しましたが、このページはハバロフスク地方行
政府のサイト内にある旅行社のページですね。
ここに「NATA TOUR」のURLも書かれていますが、残念ながらつながりませんでした。

こちらでも「NATA TOUR」社について、ロシアの検索サイトで調べましたところ、同社の
HPに辿り着きましたので、ご紹介します。

トップページ
http://www.amurnet.ru/natatour/index.html

面白いことに、日本語のページもありました
http://www.amurnet.ru/natatour/jap/index.shtml

あと、No.296 melnik さんの仰る「ボスホークホテル」も探しましたが、見つかりません
でした。また、「ボストーク」の間違いではないかとも考え、これも調べましたが引っか
かりませんでした。

推測ですが、このホテルはknockeyeさんの仰る「ボスハッドホテル」と同一のものではな
いでしょうか。

ロシア語では、“Восход”と書かれ、「日の出」の意味です。
発音に忠実にカナ表記すると「ヴァスホート」となりますが、綴り字をそのままカナに置
き換えると「ヴォスホード」となります。
ナタツアー社の日本語ページでは「ウォスホード」ホテルと書かれています。
どうぞ、ご参考までに。

#ナタツアー社のコムソモリスクの観光地に「スターリン収容所」というのがありますが
、興味をそそられます。
No.308 ロシアのドイツ人 (国勢調査データから) ニジェガロージェッツ [2004/05/26(水)23:27:32]
No.306 Ондрей Заков さん、20000カウント突破のお祝い、有難うございまし
た。

さて、
: >中央アジアや西シベリア方面に強制移住され、
: 
: この人達はその後どうなったのでしょうか。

ロシア(ソ連)のドイツ人について、手持ちの「ロシア民族事典」
(Народы России энциклопедия 1994年)
で人口データを中心に調べてみました。

まず、大戦勃発前の1939年1月17日の全ソ国勢調査のデータでは、ドイツ人人口は、ソ連
全体で1,427,200人。
うち、ロシア862,100人、ウクライナ392,700人、カザフ92,400人の3共和国で94.4%を占
めています。
このうち、ロシア内部では
ヴォルガ・ドイツ人自治州 392,500
オムスク州 58,900
クリミア自治共和国(現ウクライナ領) 51,000
スタヴロポリ地方 43,000
クラスノダール地方 34,200
ロストフ州 33,000
ヴォルゴグラード州 25,400
オレンブルク州 18,600
モスクワ州(モスクワ市含む) 14,800
クイビシェフ州 10,200
となっており、現在サラトフ州に編入されているヴォルガ・ドイツ人自治州が飛びぬけて
多いのが判ります。

戦後初の全ソ国勢調査となった1959年には、ソ連全体で1,619,700人のドイツ人人口を記
録していますが、ロシア共和国で820,100人のうち、西シベリア諸州で658,700人、また中
央アジアのカザフ共和国で660,000人、となりその分布は大きく変化しています。

ソ連最後の国勢調査となった1989年1月12日でのデータは
ソ連全体で2,038,600人、そのうちロシア共和国では842,295人が記録されています。
内訳は
オムスク州 134,199
アルタイ地方 126,901
ノヴォシビルスク州 61,479
ケメロヴォ州 47,990
オレンブルク州 47,556
クラスノヤルスク地方 43,004
チェリャビンスク州 39,215
クラスノダール地方 29,946
チュメニ州 29,569
ヴォルゴグラード州 28,008
サラトフ州 17,068
ペルミ州 15,326
スタヴロポリ地方 13,158
と記録され、西シベリアの州が4位までを独占している一方で、嘗てのヴォルガ・ドイツ
自治共和国の地を含むサラトフ州は大きく後退しています。

最新の2002年国勢調査では、ロシア連邦全体のドイツ人人口は597,100人と大きく減少し
、これはドイツ統一にソ連解体という時代の激変の中で、ドイツ本国への帰還(というよ
り移住)が進んでいる背景があると言われています。
一時期ドイツ本国では、この流れを危惧して、サラトフ州にドイツ系共和国を再興し、そ
れを支援することでロシア系ドイツ人流入問題の解決策とするようにロシア側へ打診した
との記事を日本の新聞で見たことがありますが、どうなっていることやら。
昨年、NHKでヴォルガ沿岸の各地からの紀行兼レポート番組のような特集がありました
が、その中でシベリア在住のドイツ人一団が、故郷サラトフ州の今や荒地と化した嘗ての
ドイツ人居住地へ訪問する場面がありましたが、それを見る限りでは、サラトフへのドイ
ツ人帰還は進んでいない印象を受けました。
No.309 Re2: NATA TOUR knockeye さん [2004/05/27(木)01:13:35]
: 面白いことに、日本語のページもありました
: http://www.amurnet.ru/natatour/jap/index.shtml

このページには気が付きませんでした。面白いですね。
所載のヨットは多分私が乗ったのと同じだと思います。


: ロシア語では、“Восход”と書かれ、「日の出」の意味です。
 
ということは、私が「thumb up」と聞いたのは、「sun up」だったんです
ね。五年ぶりの真実です。
No.310 ソビエト大横断 ニジェガロージェッツ [2004/05/28(金)00:50:39]
No.309 knockeye さん、いつもレス有難うございます。

先程knockeyeさんのホームページにお邪魔させて頂いたのですが、瀧澤氏の「ソビエト大
横断」早くも入手出来たようですね。

当時は今とでは社会情勢が大違いで、例えばknockeyeさんが迷路状の市内で時間を取られ
た大都市オムスクなどは、当時は「外国人立入禁止都市」で、ここを通過した瀧澤氏一行
はパトカーに先導されて、サイレンを鳴らしながら信号無視と、渋滞している車列さえ路
肩に押しのけるような強引な交通整理で市内をわずか15分で駆け抜けたというエピソード
が紹介されていました。まるで厄介払いですね。

何か大昔のような話ですが、わずか(?)14年前の出来事です。
No.311 Re: ソビエト大横断 knockeye [2004/05/29(土)21:25:08]
: 先程knockeyeさんのホームページにお邪魔させて頂いたのですが、瀧澤氏の「ソビエト大
: 横断」早くも入手出来たようですね。

今日、読了いたしました。出発前にこの本を知っていたらなぁと思います。
私は、1999年に極東地方を少し、2002年にロシアを横断したのですが、それだけ
でもずいぶん変わったと感じました。たとえば、1999年に比べると、ウラジオストー
クに韓国や中国の資本が立派なホテルを建てたり、買収したりして、物価も高くなってい
ました。

この本の書かれた頃とはもちろん全然違っていますが、ロシア人の親切とか、仕事ぶりと
か、変わっていないなぁと思う面もありました。ただ、私は全くロシア語ができないので
、その点は全く違います。ロシア語ができたらなぁと思う場面はたくさんありました。

その意味では、ニジェガロージェッツさんも、バイクで旅してみてはいかがでしょうか?
費用は大してかかりませんが、時間が問題ですけどね。
No.312 Re: ロシアのドイツ人 господин Сомпин Сомринович Пражний [2004/05/30(日)22:12:51]
No.306 Ондрей Заков さん,No.308 ニジェガロージェッツさん,ドイツ系ロ
シア国民の人名はどのように表記するのが正しいのでしょうか?
8曲の交響曲などで知られる作曲家,シュニトケ (1934--98) は通常「Alfred SCHNITTKE
」と表記されますが,「Альфред Гарриевич ШНИТКЕ」とする表記
も見たことがあります.後者はロシア語風に父称も入っていますね.
No.313 マウスビッツ家 господин Ондрей Заков [2004/05/31(月)15:18:43]
>ドイツ系ロシア国民の人名はどのように表記

この様な疑問に対する詳細はニジェさんに御任せするとして、
その時々の国情や民族主義的な意識など、変動要因によって
左右されるものかな、とも感じます。次元が異なる話ですが、
チャイコフスキーの仮名表記を、英語読みで「ペーター」と
記したCDの解説書がありましたが、元々がロシア人なので、
「ピョートル」の方が良いのではないか、とも思えました。

それにしても、No.308のドイツ系住民人口の変遷を見ますと
意外に多いのですね。ヒトラーの宿敵とされたスターリンの
統治時代における迫害振りも、推して知るべしでしょうか。

>一時期ドイツ本国では、この流れを危惧して、

移住組の帰還は、どこの国でも少なからず確執の要因となる
事が多い様ですね。旧西独の場合、ナチスの反省も相まって
戦後、外国人労働力、とりわけトルコ人を積極的に受け入れ、
その後の経済発展へと繋がりましたが、経済が成熟期に入り、
東西再統一に伴う様々な混乱において、排他主義を標榜する
ネオナチも少なからず台頭した様で、かかる状況下での件の
帰還運動は、混乱が予見されるのかも知れません。

この辺りは、EUが今後、どの程度実効的に機能できるかで
変って来ると思いますが、そのEUも、過去の論功行賞から
参加が当然視されているトルコについて、回教圏である事が
要因になり、なかなか順調に事が運ばないとの報道も。経済
先進国が地続きの欧州ならではの複雑さですね。

閑話休題)

既に20年近く前の作品ですが、ディズニー作品に造詣の深い
スピルバーグがアニメ映画「アメリカ物語」を発表しました。
ロシアに暮らしていた鼠のマウスビッツ家は、度重なる猫の
襲撃に辟易して、1885年、猫がいない楽園と噂された米国へ
移住するという設定です。

自らのルーツに思うところあって「シンドラーのリスト」も
手掛けたスピルバーグの、移民に対するある種の感情移入を
体現したものと評されますが、ロシア発(出港地はドイツ)
1885年というのは、何か歴史的な出来事に符合する必然性を
伴うものなのか否か、そして畏怖の対象である猫とは、何の
象徴なのか、少し気になります。

そのスピルバーグは、1995年に「バルト」なるアニメ映画を
発表しました。1925年冬、アラスカはノームでジフテリアに
集団感染した子供達を救う為、厳寒の中、アンカレッジから
決死の医薬品輸送を行った実話に基いた内容です。作中では
犬と狼の混血である主人公のバルトが、千km以上の長距離を
走り抜いた筋書きになっている様ですが、TVで紹介された
実際の映像によると、数区間に分かれたリレーのアンカーで
活躍したという事の様ですね。シベリアでも、似た様な話は
結構あるのでしょうかね。

これら二作品の音楽を担当したのが、以前、本頁で言及した
「ゴーリキー・パーク」や「タイタニック」などで知られる
J・ホーナーで「アメリカ物語」の場合は、ロシアにて猫に
襲撃される場面のBGMが、いかにもロシア舞踊風味という
軽快な曲でした。ちなみに主人公名は「ファイベル」ですが、
これってロシア風なんですかねえ? 
No.314 Re2: ソビエト大横断 ニジェガロージェッツ [2004/06/01(火)20:35:27]
No.311 knockeye さん。
レスが遅くなり申し訳ありません。
 
: 私は、1999年に極東地方を少し、2002年にロシアを横断したのですが、それだけ
: でもずいぶん変わったと感じました。たとえば、1999年に比べると、ウラジオストー
: クに韓国や中国の資本が立派なホテルを建てたり、買収したりして、物価も高くなってい
: ました。

ウラジオストクの変貌ぶりたるや、凄いですね。
小生がウラジオストクへ行ったのは、当時まだソ連で、公式には開放前の1991年8月と、
ソ連解体後の1992年9月の2回のみです。
ウラジオストクについては、ネットでも色々なところで目にしますが、もう全く「別の都
市」と言えそうです。
 
: この本の書かれた頃とはもちろん全然違っていますが、ロシア人の親切とか、仕事ぶりと
: か、変わっていないなぁと思う面もありました。

ロシア人が本来もつ温かさとかはいつまでも不変であってほしいですね。
ただ国が開かれるにつれて、外国人の出入りの多い大都市や国境近くの都市では、所謂「
外人ズレ」してきて、外国人目当ての犯罪も多くなるのは致し方ないことかも知れません
。
これはロシア人が一方的に変質してのではなくて、外国人にも性質の悪い連中もおり、日
本人にも「買春おやじ」のような国辱者も多く、特に団体ツアーの男性客はかなりの高率
で、こういった連中ではないかと感じます。

: その意味では、ニジェガロージェッツさんも、バイクで旅してみてはいかがでしょうか?
: 費用は大してかかりませんが、時間が問題ですけどね。

knockeyeさんの「露西亜ツーレポ」などを拝読すると、小生もオートバイ乗りの血と、ロ
シア好きの両方が騒ぐのですが、自営業者の悲哀を味わっている現状ではなんともし様が
ないのが残念です。
第一、20年近くも乗り廻し、ガタがきているている愛車GB-250クラブマン(初期型)で
はとても無理な話でしょう。

ところで、ソ連での日本人による本格的なツーリングとしては、1989年5月27日から6月14
日にかけて、3人のメンバー(プラスソ連側ライダー)で行われた「サハリン縦断2400km
」が嚆矢ではないでしょうか?
この様子はツーリングマガジン「アウトライダー」89年11月号に紹介されていましたが、
当時の樺太はユジノサハリンスク近郊の幹線道路以外の大部分は未舗装のようでした。 
No.315 Re2: ロシアのドイツ人 ニジェガロージェッツ [2004/06/01(火)21:35:19]
No.312 Сомпин Сомринович Пражний さん
: ドイツ系ロシア国民の人名はどのように表記するのが正しいのでしょうか?

おそらく、ロシア国民である以上、民族を問わず、そんぴんさんがご紹介下さったシュニ
トケ氏のように、名、父称、姓で表記するのが正しいと思います。
ただし、正式な文書では、姓、父称、名の順で表記されます。

ところで、このロシアの作曲家シュニトケ氏は1934年、ヴォルガ・ドイツ人自治州の首都
エンゲリス市に、ドイツ語翻訳者の父と、ドイツ語教師の母との間に生まれたドイツ系ロ
シア人ですね。
音楽方面に疎い小生は初めて知りました。有難うございました。
1961年にモスクワ高等音楽院作曲家クラスを卒業し、61〜72年まで同院で教鞭をとってお
られたようです。
作曲家として大成をなした後の1990年代初期には、ドイツで活動をされたようです。

ドイツではロシア式の姓、父称、名が正式表記であったかどうかは?
参考: http://www.classic-music.ru/shnitke.html
No.316 Re: マウスビッツ家 ニジェガロージェッツ [2004/06/01(火)22:18:04]
No.313 Ондрей Заков さん。
アニメ映画「アメリカ物語」と、ロシア鼠のマウスビッツ家の面白いお話、有難うござい
ます。

: 自らのルーツに思うところあって「シンドラーのリスト」も
: 手掛けたスピルバーグの、移民に対するある種の感情移入を
: 体現したものと評されますが、ロシア発(出港地はドイツ)
: 1885年というのは、何か歴史的な出来事に符合する必然性を
: 伴うものなのか否か、そして畏怖の対象である猫とは、何の
: 象徴なのか、少し気になります。

1885年のロシアとして考えられるとすれば、その当時の社会情勢が如何であったかでしょ
うか。
この少し前の1881年までのロシアは、農奴解放を断行したことから「解放皇帝」の異名で
知られるアレクサンドル2世の治下にあり、この皇帝はクリミア戦争での西欧先進国に対
する敗北から、ロシアは諸改革なくして後進性から脱却できないと考え、進歩的な官僚を
重用し、1861年の農奴解放を皮切りにゼムストヴォと呼ばれる地方自治機関の設立や、司
法制度の改革などで法の前の万人の平等の原則を打ち出すなどしました。
ところが、帝政そのものを敵とする革命諸派からは、皇帝である以上、「敵の親玉」以外
の何物でもなく、ついに1881年3月に暗殺されました。

その後を継いだ子のアレクサンドル3世は、もともと改革に否定的で、西欧流の立憲主義
や議会主義に反対して、専制政治を強化する方向に走り、父の行った改革を撤廃したり制
限したりで「反動政治と反改革の時代」と呼ばれています。
また国内の少数民族にはロシア化政策を強要し、特にユダヤ人に対しては土地の取得、移
住、高等教育を受ける権利を剥奪したばかりか、ポグロムと呼ばれる虐殺さえも許容した
ようです。

設定の1885年のロシアとは、当に反動アレクサンドル3世の治世下が始まり、夜警国家の
道をひた走っていた時代ではないでしょうか。


: ちなみに主人公名は「ファイベル」ですが、これってロシア風なんですかねえ?

いや、詳しくは存じませんが、ロシア風ではないと思います。
No.317 血の上の救世主教会 господин Ондрей Заков [2004/06/02(水)11:27:02]
>ついに1881年3月に暗殺されました。

ペテルスブルグの寺院での爆弾テロなのですね。それゆえに
同寺院は「血の上の救世主教会」という有難からざる異名が
ついたのだとか。ところでこのテロの経緯を詳しく調べると、
一回目の襲撃が未遂に終ったその直後に二回目の襲撃があり、
政治結社の一員が古都で王室の人間を狙う構図にも鑑みるに、
1914年のサラエボ事件に符合したものを感じます。その直後、
社会主義革命で王朝制が崩壊した事も考えると、何か因果的。

>アレクサンドル3世は、もともと改革に否定的で、

皇帝を国家機関化した教会の長たる独裁専制君主と位置付け、
前々世紀には国際的反動勢力の中心的存在とまで言わしめた
「ツァーリズム」を忠実に継承した観もありますね。

>農奴解放を断行したことから

ただし土地の供与は無償ではなく、以後半世紀に渡り代金の
6%を払い続ける必要性から、反って農民の貧困化が進んだ
ジレンマも存在したとする見方がある様ですね。
No.318 Re: 血の上の救世主教会 ニジェガロージェッツ [2004/06/02(水)22:55:22]
No.317 Ондрей Заков さん
アレクサンドル2世暗殺事件に関しての詳細、ありがとうございます。

: ペテルスブルグの寺院での爆弾テロなのですね。それゆえに
: 同寺院は「血の上の救世主教会」という有難からざる異名が
: ついたのだとか。

この教会(Спас на крови [スパス ナ クラヴィー])は、アレクサンドル
2世暗殺現場に、亡き皇帝を弔うために建てられた教会のようです。
それゆえの「血の上」ということでしょうか。

同寺院の写真がありました。
http://www.fotopalomnik.ru/im/spa/photo.htm

: >農奴解放を断行したことから
: 
: ただし土地の供与は無償ではなく、以後半世紀に渡り代金の
: 6%を払い続ける必要性から、反って農民の貧困化が進んだ
: ジレンマも存在したとする見方がある様ですね。

元々はアレクサンドル2世も保守的な思想の持ち主だったと聞きます。
彼の行った諸改革も、つまるところ結局は帝政を強化するためのもので、小手先の改革で
国民をなだめながら、帝政は維持されていったのが現実だったようです。
農奴解放にしても、Заковさんのお話にあるように、地主、農民の双方に不興だった
かも知れませんね。 
No.319 Re3: ソビエト大横断 knockeye さん [2004/06/04(金)06:34:57]
: No.311 knockeye さん。
: レスが遅くなり申し訳ありません。
:  
レスに関しては、お気楽に。私も、自分のBBSで長い間書かずに、冷や汗をかく時があり
ます。

: ところで、ソ連での日本人による本格的なツーリングとしては、1989年5月27日から6月14
: 日にかけて、3人のメンバー(プラスソ連側ライダー)で行われた「サハリン縦断2400km
: 」が嚆矢ではないでしょうか?
もしかしたら、私が見たのはこの記事かも知れません。サハリンから日本に帰国する船で
、日本語べらべらのロシア人と出会いました。この人もバイクでロシアを横断したことが
あるといってました。
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