フォトギャラリー もくじサハリン州の人口ニジェガローツキー・ドヴォール

チェーホフ駅(旧樺太西線 野田)。
1994年7月29日撮影

サハリンが一般外国人を受け入れて5年。ユジノ=サハリンスク(豊原)周辺だけでは、もはや満足しない日本人観光客。されど奥地のホテルは未整備かつ粗末。そんなサハリン観光の悩みを解決すべく寝台列車を移動ホテルとして企画した「ホテル列車」の旅。
日本時代に整備され、ソ連時代に延伸した鉄道網を活用しての第1回「北緯50度線突破・サハリン鉄道周遊の旅」は、北海道名寄市のJR北海道宗谷北線運輸営業所の企画に、サハリン鉄道局の全面的バックアップにより実現した画期的な旅でした。

    1994年7月当時のレート: 21ルーブル(旧) = 1円

船上から見た樺太南端、西能登呂岬

コルサコフ(大泊)へ向かう船は北海道稚内港を出港して2時間で樺太最南端・クリリオン岬(西能登呂岬)の東を通過する。岬の先端には灯台などの施設がある。写真には写っていないが背後の稜線にはレーダーサイトがあり、晴れた日には稚内からも望見できる。
1994年7月28日撮影
ホルムスク南駅でのスナップ

上野駅を模した駅舎ホルムスク駅(真岡駅)は1992年に撤去され、ホルムスクの南外れに新設された「ホルムスク南駅」。写真に写っているのはD51を改装した「観光列車レトロ号」。この列車でサハリン鉄道のハイライト「ループ線」の麓まで行く。
1994年7月29日撮影
ホルムスク北駅より

ホルムスク・セーヴェルヌイ(北真岡)駅に架る陸橋から見たホルムスク(真岡)方面。
1994年7月29日撮影
車窓から見たチェーホフ(野田)の遠景

樺太西海岸の街チェーホフ。かつては野田と呼ばれ、製紙工業の町だった。この当時でも製紙工場があった。
1994年当時では街は完全に寂れ、市内の街路の舗装もまだ施されていなかった。
写真左に映る特徴的な山は旧・野田のシンボル「梅花山」。
1994年7月29日撮影
チェーホフ(野田)市街

梅花山中腹より見たチェーホフ(野田)の街並み。
1994年7月29日撮影
ノヴォセロヴォ(追手)

トマリ(泊居)の2つ南の駅ノヴォセロヴォ(泊居町追手)で臨時停車。村の子供達が列車を前にポーズをとってくれた。
長閑な村の佇まいと、背後の間宮海峡をバックに一枚。
1994年7月29日撮影
トマリ(泊居)南方の樺太西海岸の様子

チェーホフ(野田)を出てトマリ(泊居)までの樺太西岸は写真のような断崖が続く。
写真は旧樺太西線を走る列車から撮影したものであるが、線路は所々で断崖の絶壁の上に敷設されており、路肩補強のようなものは見受けられず、スリルを感じた。
1994年7月29日撮影
トマリ(泊居)の旧市街

製紙工場の街トマリ(泊居)。旧王子製紙泊居工場の煙突が見える。
1994年7月29日撮影
    

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