ニジェガローツキー・ドヴォール掲示板 ヤールマルカ
 
過去ログ6

過去ログ5 へ 記事番号No.397〜489 過去ログ7 へ

No.397 かなり砕けた話題で失礼します господин Ондрей Заков [2004/08/25(水)10:25:49]
小学校低学年の息子が、覚えて間も無いキーワード検索を駆使し
こんな頁を見つけてしまいました。羽佐間道夫さんの吹替えだと
噴飯モノかも知れません。中盤以降に登場するキリル文字による
テロップを和訳すると、どの様な内容になるでしょうか?
参考: http://www2.veldia.net/~jyo_ho/1/sw/sovi.swf
No.398 シンクロ水泳 господин Ондрей Заков [2004/08/25(水)10:48:30]
連日の五輪報道で御多分に漏れず寝不足気味の昨今ですが、昨日
シンクロ水泳における日本チーム最大の強敵であるロシア代表の
ダビドワ・エルマコワ組に対するインタビューが報道されました。
彼女達曰く、日本チームは選曲において東洋の風味を求め過ぎる
傾向が見て取れ、欧米勢との差別化をかなり意識しているのでは
ないかという、かなり鋭い指摘がありました。

それを踏まえてか否かは判りませんが、日本チームは本番の僅か
二箇月前に曲目を変更するという、大胆な戦術を取ったとの事で、
何にしても決勝ラウンドでの活躍を期待するところです。

ロシア・チームはハリウッド映画のBGMも取り入れる等、元々
チャイコフスキーなど西洋音楽の巨匠を擁したがゆえの御国柄か、
ある種の大らかさすら感じますね。また、バレエが盛んな事から、
潜在的な競技人口は意外に多いのかも。

ロシアに対する極めて偏狭な風物詩として、コサック・ダンスが
挙げられますが、その内、かかる舞踊感覚も取り入れられる様に
なったら凄いでしょうねぇ(物理的にちょっと無理かな?)
No.399 Re: 国境を越える旅のロマン 西牟田靖 さん [2004/08/26(木)03:51:52]
ありがとうございます。現在、直しの作業をしていますが、かなり悪戦苦闘しています。
おっしゃる通り奥が深いですからね。発売日はまだまだ先になりそうです。

飛行機乗っていきなり外国、というプロセスに飽きたんです。それ以外の旅がどうしても
したかったんです。ロマンですか。確かにありますね。できればそのとき、自前のバイク
で走ってみたかったんですが実現しませんでした。

サハリンを89年に行ったとは感服です。現在行くよりも落差が激しいでしょうね。なん
せそのときはまだソ連だったのだし。現在とはだいぶ違うのでしょうね。

戦前の樺太の写真集そのものは見たことがありませんが、戦前のサハリンの建築物を紹介
するサイトなどはあれこれ探して見ています。NHK出版のシベリアですか。

戦前のサハリン人口データ拝見しました。終戦直前のデータはここにはないのですね。 
No.400 Re: かなり砕けた話題で失礼します ニジェガロージェッツ [2004/08/27(金)01:44:31]
No.397 Ондрей Заков さん、いつも面白い話題を有難うございます。
ご紹介頂いたページ、拝読しました。

: 中盤以降に登場するキリル文字によるテロップを和訳すると、どの様な内容になるでしょうか?

イデオロギー的な話題はあまり好きではないのですが(笑)、これは、スターリン時代の
「ソビエト社会主義共和国連邦国歌」です。

対訳のあるページを見つけましたので、ご参考まで。
http://members.at.infoseek.co.jp/inouen/anthem/word/ussr1944.html

http://members.at.infoseek.co.jp/inouen/anthem/word/ussr.html 
No.401 金メダルおめでとう! よかったね さん [2004/08/28(土)02:54:59]
たった今、ロシアのシンクロの演技を見ました。
演技をはじめてこれから見せ場というときに、なんと!音楽が止まってしまったのです。
。
でも、選手たちの落ち着いた笑顔と、それとこのまま再度続行するという若い表情にどこ
か頼もしさを感じました。

ブラボー、ほんとにすばらしかった、最悪のタイミングで音楽が止まるという、失礼なア
クシデントを克服した金メダルは、国を超えて誉めてあげていいのではないでしょうか。
No.402 Re: 金メダルおめでとう! ニジェガロージェッツ [2004/08/30(月)00:05:21]
No.398 Ондрей Заков さん、
No.401 よかったね さん、
ロシアのシンクロ水泳金メダル獲得に対してのメッセージ、有難うございます。ロシア在
住の女房に代わり、御礼申し上げます。

: ブラボー、ほんとにすばらしかった、最悪のタイミングで音楽が止まるという、失礼なア
: クシデントを克服した金メダルは、国を超えて誉めてあげていいのではないでしょうか。

全くおっしゃるとおりです。これからもロシアのシンクロは見逃せないですね。
No.403 1989年の「夏のサハリン」 ニジェガロージェッツ [2004/08/30(月)00:46:02]
No.399 西牟田靖 さん、レス有難うございます。

: 飛行機乗っていきなり外国、というプロセスに飽きたんです。それ以外の旅がどうしても
: したかったんです。

小生の場合、初めての海外旅行が、稚内港からホルムスク(真岡)へソ連船「サハリン9
号」で渡った旅でした。
実はこの年の夏には学生時代の友人数人と「大連・北京の旅」へ行く予定でした。ところ
が旅行社に申し込みを済ませた数日後に北京で「天安門事件」が発生し、中国への渡航自
粛が勧告され、旅行社のツアーが中止となりました。
丁度その時、ペレストロイカ政策の影響で、国境地帯として門戸を閉ざしていたサハリン
へのツアーが一部解禁となり、一般の旅行者を募ってのツアーが実現し、「戦後初の樺太
旅行」などと報道されているのを知り、友人と2人で即申し込みました。以来、ロシア以
外の外国へは行った事がありません。

: サハリンを89年に行ったとは感服です。現在行くよりも落差が激しいでしょうね。なん
: せそのときはまだソ連だったのだし。現在とはだいぶ違うのでしょうね。

サハリンへは1994年に3回目の訪問を果たして以来、行っていませんが、その当時でも89
年の状況とは様変わりしていました。
視覚的にも、89年にはホルムスクの港に着いたときから、どこへ行ってもレーニンの似顔
絵とスローガンが書かれているポスターが目立っていました。「赤いソ連」そのものが健
在でしたが、94年には一掃されていました。

: 戦前のサハリン人口データ拝見しました。終戦直前のデータはここにはないのですね。

樺太の全市町村の人口を網羅したデータは、1941年の人口調査のものがありますが、拙サ
イトではまだ取り上げていません。
樺太でも1940年10月の国際調査は行われているのですが、データを入手出来ずにいます。
あと終戦直前の1944年にも人口調査があったようですが、断片的なデータしか入手できな
いのが残念です。
No.404 赤の広場 господин Ондрей Заков [2004/08/30(月)08:06:31]
昨日、初めて気がついたのですが、カップヌードルのTVCMに
赤の広場が登場していましたね。美味しさに国境は無い、という
趣旨の様ですが、社会主義体制が崩壊した後においても、赤色の
意義は健在なのでしょうか。

赤の広場と言えば、87年にヘルシンキを発った西独人青年操縦の
セスナが強硬着陸し大騒ぎになった事がありましたね。自由剥奪
四年の実刑判決を受けるも、翌年国外退去処分との事で、当時の
東側盟主の防空体制神話に大きな陰りが差した一件でした。
No.405 氷雪の門 господин Ондрей Заков [2004/08/31(火)08:40:43]
麗しの滝川嬢の御尊顔を拝すべく、昨夜もフジTVのニュースを
観ていたところ、小特集にて「氷雪の門」が紹介されていました。
食い意地の張った私は、蟹料理がどうかしたか、と勘違いするも、
小学生の頃、涙ながらに担任教師から聞かされた、旧樺太真岡の
終戦時における電話交換手達の悲話を描いた映画だったのですね。
製作当時、旧ソ連の抗議により直前に上映が中止されたとの事で、
国際政治の非情さが垣間見られますね。この一件を以て、戦争の
何たるかを総括し得るほど思索を深めている訳ではありませんが、
厳然たる史実として襟を正す思いです。

稚内公園は大学の卒業旅行で訪れました。時期が時期ゆえ兎に角
寒風が酷く、三分と外にいられない様な状況で、碑の意味を良く
噛み締める事無く、早々に退散したのでした。
参考: http://www.worldtimes.co.jp/shop/hyousetsu/main.html
No.406 Re: 氷雪の門 ニジェガロージェッツ [2004/09/01(水)01:14:53]
No.405 Ондрей Заков さん、映画「氷雪の門」についてのページをご紹介い
ただき、有難うございました。

: 小学生の頃、涙ながらに担任教師から聞かされた、旧樺太真岡の
: 終戦時における電話交換手達の悲話を描いた映画だったのですね。
: 製作当時、旧ソ連の抗議により直前に上映が中止されたとの事で、
: 国際政治の非情さが垣間見られますね。

「幻の映画」がビデオで復活とは嬉しい限りですが、今の小生にはちょっと手の届く価格
でないのが残念です(涙)。
ソ連軍の侵攻のさ中、青酸カリで自決した真岡郵便局電話交換手9人の乙女の悲劇は宗谷
岬の「氷雪の門」で有名ですが、現場となった旧真岡郵便局は1981年頃まで現存していた
ようです。小生が初めて真岡を訪れた1989年には、既に7階建てのソ連型の建物に改築さ
れており、姿を消していました。当時の添乗員の解説では、サハリンでは建物の1階を建
てるのに1年を要するそうで、7階建てということは、すなわち7年かかっているという
ことでした。

ところで、稚内で入手した当該事件についての詳しい書籍によると、現場にいた電話交換
手は9名ではなく、少ないながらも生存者がいたそうです。
この本は今手元になく、詳しくはレスできないのですが、捜せば出てくると思います。震
災を被って、一番邪魔だったのは「書籍の山」で、多くを処分したのですが、樺太やロシ
ア絡みの書籍はすべて残したものの、ダンボール箱に詰めて倉庫の奥へ仕舞いこんでいま
す。
事件の詳細はまた後日ということで。
No.407 稚泊航路 господин Ондрей Заков [2004/09/01(水)12:36:29]
>今の小生にはちょっと手の届く価格でないのが残念です(涙)

「上映委員会」のリンク先で予告編の映像が紹介されていますね。
映像が不鮮明ですが、ソ連の歩兵が一斉掃射にて進撃する場面が
ありまして、ロシア人以外の欧米人が友情出演したのか、などと
思って見たり。「陸上自衛隊全面協力」ともありますが、当時は
余程の肝煎り体制だったのでしょうかね。

稚内といえば、かつては鉄道も乗り入れたと聞く、桟橋の防波堤
ドームを想起します。ここに発着する稚泊航路が、旧樺太に至る
主要交通路だったのでしょうけれど、冬季の荒天振りから推すに
どれ程、定期運行を確保出来たのでしょうね。船首の砕氷能力も
当然求められたものと推察しますが。ソ連軍の南樺太進攻に際し、
航行禁止令の下、撃沈の危険性を承知で宗谷海峡を往復し、在留
邦人の引揚に多々与した関係者の御苦労にも頭の垂れる思いです。

その当時、連絡船接続を担った宗谷線の地位はかなり高かったと
思いますが、現在稚内に発着する定期列車は、夜行一往復を含む
特急が一日四往復に普通が五往復とささやかな陣容で、稚内市が
存在しなければ名寄以北は早々に廃止かと思える程です。

==========================================================

話は変わりますが、瀬戸内海東部では今回の台風に際し、大潮も
影響し広範囲に高潮の被害を受けた様ですが、ニジェさんの所は
いかがだったのでしょうか。
No.408 Re: 赤の広場 ハローシャヤ・ボーダ さん [2004/09/03(金)18:38:21]
: 社会主義体制が崩壊した後においても、赤色の
: 意義は健在なのでしょうか。

ロシア語の「赤い」と「美しい」の語源は同じ。現代ロシア人の
共産主義に対する印象は知らないが、赤色に対するイメージは
良いと思う。
No.409 遅れレス御容赦を ニジェガロージェッツ [2004/09/04(土)20:35:31]
こんばんは、秋雨前線の影響で小雨降る神戸からです。

私事ながら、来来週まで平日は夜間アルバイトに出ており、ここしばらくは土日以外は落
ち着いてレスを返せないのを申し訳なく思っています。

このところロシアでは、8月25日の2旅客機同時爆破テロに続いて、モスクワ・地下鉄リ
ガ駅前の爆弾テロ、更に北オセチア共和国ベスラン市での学校占拠により250人以上の犠
牲者が出るなど悲報が続き、心を痛めます。言葉もありません。

No.407 Ондрей Заков さん
: 話は変わりますが、瀬戸内海東部では今回の台風に際し、大潮も
: 影響し広範囲に高潮の被害を受けた様ですが、ニジェさんの所は
: いかがだったのでしょうか。

お気遣い有難うございます。いつもオートバイGB250でバイト先に急行するのですが、こ
の月曜日(8/30)の晩は台風による荒天のため、電車で行きました。行く時はまだましだ
ったのですが、帰りは終電に間に合うようにアルバイト先を失敬したものの、深夜0時頃
の神戸は最悪でした。暴風雨の中、吹き飛ばされながらの帰宅となりました。(送り風だ
ったので、坂を上るのは楽でしたが)
No.410 Re: 稚泊航路 ニジェガロージェッツ [2004/09/04(土)23:29:05]
No.407 Ондрей Заков さん

: 稚内といえば、かつては鉄道も乗り入れたと聞く、桟橋の防波堤
: ドームを想起します。ここに発着する稚泊航路が、旧樺太に至る
: 主要交通路だったのでしょうけれど、冬季の荒天振りから推すに
: どれ程、定期運行を確保出来たのでしょうね。船首の砕氷能力も
: 当然求められたものと推察しますが。

北海道・稚内と樺太・大泊を結ぶ鉄道連絡線「稚泊航路」についての書き込み、有難うご
ざいます。
稚泊航路については小生もグリグリさんの「落書き帳」に書き込みしたことがあります。
拙稿記事へのリンクを張って見ていただく程のものでもありませんので、ここに引用しま
す。

以下、引用===
北海道縦貫鉄道(宗谷本線)が大正11(1922)年11月に開通し稚内港に達し、それまで小
樽港より大泊、真岡への航路であったのを鉄道省が大正12(1923)年6月8日、稚内港―大
泊港間に連絡航路として営業を開始したものが北海道と樺太を連絡する「稚泊航路」と呼
ばれるものでした。
この稚泊航路には砕氷装置を備えた3200トン級の連絡船が2隻就航し、所要時間は8〜9
時間を要し、
夏季(4月16日より10月31日) 1便 稚内発23時 大泊着 7時、2便 大泊発21時 稚内着 5
時 
冬期(11月1日より4月15日) 変1便 稚内発 9時 大泊着18時、変2便 大泊発10時 稚内
着19時 
 (但し、時代により若干の時刻および便名の変更あり、昭和18年6月以降は運行時刻は軍
秘扱い)

昭和10年発行「樺太地誌」によると、代表的な連絡船の一つ「亜庭丸」について、
「亜庭丸3297トン、旅客定員1等18名・2等102名・3等634名―計754名、貨物輸送力400
トン、無線電信、砕氷装置を以って海氷の間を進み、方向探知機と音響測深機を以って海
霧の濃厚なる難航路を行く優秀船である。」と記述しています。
また、昭和55年発行「北海道鉄道百年史」の稚泊航路の記事から、この航路に就航した歴
代の連絡船を拾い上げて纏めてみますと、(前出亜庭丸のトン数が若干異なるが)
船名 トン数  就航日〜退航日他 
壱岐丸 1680  大正12年6月8日〜昭和6年5月11日 退航 
対島丸 1839  大正12年6月8日〜大正14年12月17日 野寒布岬で座礁 
田村丸 1479  大正15年4月16日〜昭和2年10月21日 退航(夏季のみ) 
亜庭丸 3355  昭和2年12月8日〜昭和20年8月10日 青函連絡船に助勤就航中、米軍機によ
り撃沈 
高麗丸 3028  昭和6年6月2日〜昭和7年11月8日 (夏季のみ) 
宗谷丸 3593  昭和7年12月29日〜昭和20年8月24日 稚泊航路終航 
 
昭和20年8月15日、宗谷丸が稚内から大泊港に向けて航行中に終戦となりましたが、ソ連
軍の侵攻により樺太奥地より引揚者が大泊港に殺到し、引揚者輸送のため連絡船の他にも
特務艦、貨物船、漁船など使用可能なあらゆる船舶により運航は継続され、8月20日頃か
ら樺太引揚者の輸送はピークに入りましたが、8月23日22時大泊港発、翌4時稚内着の宗谷
丸の3600人を最後に、連合軍通達で24日18時以降の日本国船舶の運航を全面停止の命令を
受け、更に27日に樺太鉄道局長から札幌鉄道局長に対し大泊港にソ連軍艦が進駐してきた
ため運航を見合わせるとの連絡が入り、この24日4時稚内入港の宗谷丸を最後に「稚泊航
路」は休止となりました。
====引用終わり

ソ連軍の南樺太進攻に際し、
: 航行禁止令の下、撃沈の危険性を承知で宗谷海峡を往復し、在留
: 邦人の引揚に多々与した関係者の御苦労にも頭の垂れる思いです。

残念ですが、引揚の任務に投入された船舶のうち、小笠原丸、第二新興丸、泰東丸の3船
がソ連潜水艦の魚雷攻撃を受け、乗船していた大半の避難民が犠牲となりました。
戦後長い間、だれもがソ連の仕業だと思いながらも、潜水艦の国籍は不明とされていまし
たが、ソ連解体とほぼ同時期に、ロシアでこれらの事件(作戦)についての文書が発見さ
れ、ソ連潜水艦であったことが明らかになりました。また、これら潜水艦の任務がソ連軍
の北海道上陸を支援することだったことなどと報道されていました。
No.411 犠牲となった子供達に黙祷 господин Ондрей Заков [2004/09/06(月)12:51:04]
>赤色に対するイメージは良いと思う。

イデオロギー面を度外視してなお、歴史的・文化的に好感すべき
色という感覚と見て良いのでしょうかね。

>北オセチア共和国ベスラン市での学校占拠

犠牲者の中には、我が子と同い年くらいの子供達も多々含まれる
様子で、心痛察するに余りあるところです。昨夜の報道によると、
犯人グループの女性陣は、度重なる進攻で夫や子供などの家族を
失った挙句に、自爆も辞さない覚悟で臨んだ人達との事で、その
連鎖的な悪循環に陥りつつある怨嗟の大きさに、私如きが安易に
あれこれ意見できる様な雰囲気でもありませんね。

一方、今回の事件のスタイルにおいて、射殺された犯人達の中に
アラブ系が含まれていた点が憂慮されるとのコメントに、三年前
NYの惨劇に巻き込まれた知人の事を改めて想起します。

>暴風雨の中、吹き飛ばされながらの帰宅となりました。

それは大事でした。台風の際に直接的な被害を受ける事が比較的
少ない関東地方在住の有難さが実感されるところです。

>ここに引用します。

詳細なる御教示を頂いて、有難うございます。冬季が昼行なのは
当然として、夏季が夜行というのは、随分と変則的な陣容ですね。
かつての国鉄遠距離列車と同様、就寝時間帯を移動に充てる事で、
要領良い移動を念頭に置いたものでしょうか。それにしても当時
接続が順当に行ったとして、上野−真岡の連絡船二系統を介した
鉄道移動は、どの程度の時間を要したのでしょうか。

>方向探知機と音響測深機を以って海霧の濃厚なる難航路を行く

こうした探測設備は大正年間に発生したタイタニック号の事故の
教訓として発達したそうですね。もっとも同船の場合、NYへの
短時間到達記録を意識した挙句、あえて北氷洋を経由したという
無謀な側面もあったと聞きますが。

>ソ連軍の北海道上陸を支援すること

世が世なら最前線の橋頭堡になっていたかも知れない稚内市では、
1972年に、ネベリスク市と友好都市提携の調印を行っていますが、
当時のソ連は「大いなる停滞期」と称されたブレジネフ政権下で、
帝国主義への対抗云々を謳った条約の文言の取扱いに苦慮したと
何かの報道で一瞥した記憶があります。
No.412 金角湾 господин бамбук [2004/09/09(木)16:54:19]
こんにちは。はじめまして。
ロシア連邦の地方制度について知りたいと思い、ネットで検索してこのHPに辿り着きま
した。たいへん有意義な情報が得られ、感謝しております。
あまりの面白さに、必要なことがわかった後もいろいろなコンテンツを見ておりましたと
ころ、「ウラジオストクの金角湾」という写真を見つけました。ウラジオに、そんな地名
があるのですね。「金角湾」といえば、トルコのイスタンブールだと思ってましたが、何
か両者の間に関係があるのでしょうか。
イスタンブールの「金角湾」は、夕日が湾に金色に映ることから名づけられたようですが
、ウラジオの金角湾も同じようなシチュエーションなのでしょうか?
ご教示いただければ幸いです。
参考: http://www.wordiq.com/definition/Golden_Horn
No.413 Re: 犠牲となった子供達に黙祷 ニジェガロージェッツ [2004/09/12(日)00:28:43]
No.411 Ондрей Заков さん、いつもながらの遅れレスにてご容赦を。

: >北オセチア共和国ベスラン市での学校占拠
: 
: 犠牲者の中には、我が子と同い年くらいの子供達も多々含まれる
: 様子で、心痛察するに余りあるところです。昨夜の報道によると、
: 犯人グループの女性陣は、度重なる進攻で夫や子供などの家族を
: 失った挙句に、自爆も辞さない覚悟で臨んだ人達との事で、その
: 連鎖的な悪循環に陥りつつある怨嗟の大きさに、私如きが安易に
: あれこれ意見できる様な雰囲気でもありませんね。

まだ事件の全容は明らかになっていませんが、仰るとおり連鎖的な怨嗟の悪循環が続いて
おり、エスカレートする一方です。
今回は子供達とその親を標的にした卑劣なテロ事件ですが、いつも弱者が犠牲になり、心
が痛みます。
52時間にわたる恐怖の末、犠牲となった人々に深く黙祷を捧げます。
No.414 金角湾と東ボスポラス海峡 ニジェガロージェッツ [2004/09/12(日)01:36:37]
No.412 бамбукさん、はじめまして。
ようこそお越し下さいました。レスをお返しするのが遅くなりましたが、これからも宜し
くお願い致します。

: たいへん有意義な情報が得られ、感謝しております。

有難うございます。HPを運営していく上で、大変励みになるお言葉。今までの苦労?が報
われた気が致します。

:「ウラジオストクの金角湾」という写真を見つけました。ウラジオに、そんな地名
: があるのですね。「金角湾」といえば、トルコのイスタンブールだと思ってましたが、何
: か両者の間に関係があるのでしょうか。

リンク頂きましたトルコのイスタンブールの金角湾の画像拝見しました。都市の規模の差
はありますが、景色としてはウラジオストクの金角湾の光景に似ていると感じました。ウ
ラジオストクの金角湾の東部は、ほぼ東西に河の様に伸びていることから、「夕日が湾に
金色に映る」こともあるでしょう。

ところで、イスタンブールとウラジオストクの両「金角湾」ですが、関係ありです。

ウラジオストクは、アムール湾とウスリー湾に挟まれたムラヴィヨフ・アムールスキー半
島の南端に深く切り込まれた入り江
「金角湾 бухта Золотой рог」
の沿岸を中心に市街が発達しています。市街の南の沖合いには、
「ルースキー(ロシア)島 остров Русский」
という島があり、この島を隔てる海峡を
「東ボスポラス海峡 пролив Боспор Восточный」
と言います。

#ロシア語をそのままカタカナ化すると「東ボスポル海峡」ですが、イスタンブールの「
ボスポラス海峡」をロシア語で「ボスポル海峡 пролив Боспор」と表記す
ることから、「東ボスポラス海峡」と和訳します。

「金角湾」と「ボスポラス海峡」はご存知の通りイスタンブールに現存する海域名です。
これはウラジオストクの地をロシア帝国が領有した1860年という時代が、トルコの中立化
と黒海から地中海への航路の確保を狙ったクリミア戦争(1853〜1856年)の結果、英仏土
連合軍に破れ、結局は黒海から地中海への出口である、ボスポラス海峡の航行権を失った
直後という背景があり、イスタンブールに対する固執から、遠く離れた極東の「新領土」
にこうした地名を付けたと言われています。

ウラジオストクの地図を参考に出しておきます。
参考: http://www.mirkart.ru/vladivostok/
No.415 感謝の弁 toshさんへ ニジェガロージェッツ [2004/09/12(日)02:02:38]
先週、新たに「閉鎖行政地域(旧秘密都市)一覧」というページを作成しましたが、以前
にtoshさんからご提供頂いた記事(過去ログ .153)が大いに役に立ちました。
遅くなりましたが、深く御礼申し上げます。

一覧表の作成にあたっては、ロシアの現地サイトなど数点をあたり完成させてのですが、
この分野はtoshさんがご専攻されていることから、間違いや補足すべき点など、お気付き
の事があれば、どうぞご指摘頂ければ幸甚です。

なお、地名のカナ表記については、拙HPの他のページとの整合性もあり、toshさんの153
とは違った表記もありますが、ご諒解頂ければと思います。
No.416 Re: 金角湾と東ボスポラス海峡 господин бамбук [2004/09/21(火)17:46:28]
レスありがとうございました。
ユーラシアの東と西に、奇妙な縁でつながれたふたつの港湾都市がある、というわけです
ね。

また、いろいろと教えてくださいませ。
No.417 人口データ更新作業中 ニジェガロージェッツ [2004/09/23(木)00:37:11]
No.416 бамбук さん、コメント有難うございます。
また何なりと書き込み下さい。お待ちしております。

さて今年になり、2002年全露国勢調査の結果が次々に公表されています。最近にはロシア
全2940都市(1098市+1842町)、人口3000人以上または地区中心の村落の人口データの詳
細も入手しました。

これを受けて拙HPでは人口データの更新作業、2001年1月1日の推計人口を2002年10月9
日国勢調査人口に差し替える作業を進めています。
既に極東およびシベリア連邦管区の「連邦構成体別の都市・地区人口データ」は終了し、
次に「1098市一覧表」の人口データを更新する作業に入っています。

それにしても、2001年人口と比較するとロシアの殆どの市でかなりの人口の減少が続いて
います。少子化で将来の人口減少が確実な日本の未来を見ているようで気が滅入ります。
No.418 国勢調査結果 アファナーシー=ニキーチン さん [2004/09/24(金)01:24:30]
ご無沙汰してます。アファナーシー=ニキーチンです。人口統計の地道な更新作業を続け
られているご様子、お疲れ様です。

私も久々にゴスコムスタット(とはもう呼ばないんですね?)の国勢調査結果を覗いてみ
ました(www.gks.ru)。
公表された結果の中でも「圧巻」と言えるのは、全連邦構成主体の民族別人口統計でしょ
うか。例のテロで脚光を浴びた北カフカースや、ロシアに数多くある民族共和国の構成な
ど、興味が尽きません。サハリン州に333名登録されている「日本人」の項は、いわゆる
残留日本人の存在を物語るものでしょうか。同州では朝鮮系の人口も6%近くに達してい
るようです。

また後日寄らせてください。では。
No.419 Re: 国勢調査結果 ニジェガロージェッツ [2004/09/24(金)22:37:39]
No.418 アファナーシー=ニキーチン さん、お久しぶりです。
更新作業への労いのメッセージ、痛み入ります。
こちらは朝晩は凌ぎ易くなったとはいえ、まだまだ30度を越える暑い日々が続いておりま
すが、さすがにペテルブルクはもう冬支度でしょうか?

: 私も久々にゴスコムスタット(とはもう呼ばないんですね?)の国勢調査結果を覗いてみ
: ました(www.gks.ru)。
: 公表された結果の中でも「圧巻」と言えるのは、全連邦構成主体の民族別人口統計でしょ
: うか。例のテロで脚光を浴びた北カフカースや、ロシアに数多くある民族共和国の構成な
: ど、興味が尽きません。

面白過ぎる統計ですね。仰る統計を拝見すると、特に驚いたのはチェチェン共和国の民族
構成。21ある民族共和国の多くが、ロシア人人口と当該民族人口が拮抗している中で、北
カフカスではロシア人が少数派。
特にチェチェンでは、全人口1,103,686人のうち、1,031,647人がチェチェン人で、ロシア
人は二桁少ない40,645人となっています。
隣のイングーシ共和国では、全人口467,294人のうち、ロシア人は僅か5,559人。
前回の89年国勢調査では、旧チェチェン=イングーシ自治共和国で全人口1,270,429人の
うち、チェチェン人734,501人に対しロシア人は293,771人居たことと比べると、凄い差が
あります。

ところで、チェチェン人は現在に至るも度重なる戦争の結果、20万人が死亡したと伝えら
れていますが、統計上のこの「人口の激増」はどう説明できるのでしょうか?

考えられるのは、子供の増加。
別の統計を見ると、チェチェン共和国の平均年齢は22.7歳、イングーシ共和国で22.2歳と
ありました。
ロシア全体の平均年齢37.1歳、モスクワ市では39.3歳です。
このことからしても、新生児の増加による人口増と推察できます。


: サハリン州に333名登録されている「日本人」の項は、いわゆる
: 残留日本人の存在を物語るものでしょうか。同州では朝鮮系の人口も6%近くに達してい
: るようです。

確かに、90年代の初めには300人程の残留日本人がいるように聞きました。それを裏付け
る数字に思えます。ただ、皆さん既にご高齢の方が多く、現在では当然減少しているでし
ょうが、その一方でビジネスでサハリンに居住する人々も増えていると聞きます。
No.420 閉鎖都市 アファナーシー=ニキーチン さん [2004/09/29(水)06:44:42]
: さすがにペテルブルクはもう冬支度でしょうか?

まだ雪こそ降りませんが、こちらは肌寒いです。今日ニュースで、「今年の暖房シーズン
は今度の土曜日からです」とやってました。ロシアは全市集中暖房なので、この日からは
450万市民が暖房を享受できる訳です。当日は市内各地で暖房に感謝するイベントが、と
いうことはさすがにないのですが、半年振りに放熱パイプ内を駆け回る熱水の音はロシア
ならではのような気がします。

前回書ききれなかったのですが、「閉鎖都市」の関連で紹介させてください。
ニジェガロージェッツさんがご紹介されている「ЗАТО」とは異なるものですが、レニ
ングラード州内にも様々な理由で外部からの立入りが禁じられている地域が複数存在しま
す。

例えば、フィンランド湾南岸のソスノービー・ボル市とその周辺部。道路地図には検問所
が記載されており、ガイドブックを読むと、同地域には「国境地帯」レジームが敷かれて
おり、入域には事前許可を得る必要があるとあります。とはいえ、同市はエストニア国境
から70kmも離れており、それでは理由が付きません。おそらく本当の理由は、同市にある
レニングラード原子力発電所でしょう。
ロシア人特有の意識が働くのか、こちらで発行されている地図には原発の所在さえ記載さ
れていません。禁止区域はかなり広大なもので、日本でいえば、原発警備目的で例えば若
狭湾岸を全て制限区域にするような感覚でしょうか。
興味深くもソスノービー・ボル市にはソ連時代に「アンデルセングラード」なるテーマパ
ークが建設されており、原発関係者が好待遇であったことを垣間見させてくれます。ソ連
風のその名前とは対照的に園内は中世北欧を模したメルヘンの街だそうで、ガイドブック
の写真を見る限りでは今でも存続しているようです。

興味は尽きませんが、外国人が許可を得られるのかなど、実体についてはよく分かりませ
ん。多くの人は、ペトロドバレッツやロモノーソフなど有名観光地から30分足らずのとこ
ろにそのような地域が広がっていることも知らないでしょう。原発が無事運転されている
ことを祈るばかりです。

それでは、お見苦しい長文失礼しました。
No.421 ソスノービー・ボルについて ニジェガロージェッツ [2004/09/30(木)21:52:19]
No.420 アファナーシー=ニキーチン さん、「原発閉鎖都市」ソスノービー・ボル市につ
いてのご紹介有難うございます。

: まだ雪こそ降りませんが、こちらは肌寒いです。今日ニュースで、「今年の暖房シーズン
: は今度の土曜日からです」とやってました。

いよいよ冬の季節ですね。部屋の隅に張り巡らされた放熱パイプを思い出すと、あれは本
当に有難いシステムでした。もっともあれが無いと、とても一冬越せないのですが、個人
的には、あの放熱パイプの上に洗濯物を掛けて置くと、すぐに乾いたのに感激しました。

: 「ЗАТО」とは異なるものですが、レニングラード州内にも様々な理由で外部からの
: 立入りが禁じられている地域が複数存在します。

: 例えば、フィンランド湾南岸のソスノービー・ボル市とその周辺部。道路地図には検問所
: が記載されており、ガイドブックを読むと、同地域には「国境地帯」レジームが敷かれて
: おり、入域には事前許可を得る必要があるとあります。

拙HPの「市一覧」にもある、Сосновый Бор のことですね。
手持ちのロシア地理事典には、同市の概要についてのみの簡単な記載がありました。
要約すると、「レニングラード州の市。サンクトペテルブルクの西81キロ、フィンランド
湾コポルスカヤ入江の岸辺、コヴァシ川に位置。鉄道、カリシチェ駅。人口60,200(1996
年)。1973年市制。市内にレニングラード原発(1967年建設開始)、機械製造工場(飼料
生産、機械)、魚類加工コンビナートがある。」
と、だけしか書かれていませんでした。
雰囲気が伝わってこないので検索サイトをあたると同市の公式サイトに辿り着きました。
 
http://www.sbor.ru/

: とはいえ、同市はエストニア国境から70kmも離れており、それでは理由が付きません。
: おそらく本当の理由は、同市にあるレニングラード原子力発電所でしょう。 
: ロシア人特有の意識が働くのか、こちらで発行されている地図には原発の所在さえ記載さ
: れていません。

前出の市公式サイトには、この原発のHPへのリンクがありました。
レニングラード原子力発電所
http://www.laes.ru/
外観だけを見ると、ニュース映像で流れていたチェルノブイリ原発を彷彿似させる不気味
さですね。
さらにこのHPには、ロシア各地の原発へのリンクもありました。

: 興味深くもソスノービー・ボル市にはソ連時代に「アンデルセングラード」なるテーマパ
: ークが建設されており、原発関係者が好待遇であったことを垣間見させてくれます。ソ連
: 風のその名前とは対照的に園内は中世北欧を模したメルヘンの街だそうで、ガイドブック
: の写真を見る限りでは今でも存続しているようです。

「アンデルセングラード」ですか。これも同市サイトに発見です。
http://www.sbor.ru/25year/andresengrad.html
1980年開園の子供の総合遊戯施設のようですが、日本のちょっとしたファミリ―ランドの
ような所でしょうか。
日本では同様の施設が次々に廃園になっており、そうならないように祈るばかりですが、
都市そのものが閉鎖されている状況では、先が思いやられます。
ロシアでは多くの都市で人口減少が続く中、この市の人口は堅実な増加をみている事が、
唯一の救いでしょうか。

: それでは、お見苦しい長文失礼しました。

いえいえ、どうぞ御気に為さらず。こういうお話は大好きです。現地にお暮らしのニキー
チンさんならではの力作、いつも楽しみにしております。
No.422 Re: ソスノービー・ボルについて アファナーシー=ニキーチン さん [2004/10/01(金)05:06:28]
ご紹介頂いたサイト、拝見しました。市のサイトにも「入域管理体制の強化」なるニュー
スがあり、外国人がクルマで立入るなどもってのほかなんでしょうね。

原発のサイトを見ると、スモレンスクやボロネジなどヨーロッパロシアを中心に結構な数
の原発があるようです。「ボロネジ」なる街、ロシアには珍しい「珍地名」かと思ってま
したが、原発があるとなると笑うに笑えません。確か、大統領専用機で知られるイリュー
シン96もボロネジ製だったような・・・。

ちなみに州内の他の立入制限地域はいずれも国境やその隣接地域にあるもので、国道A-129
号線のラドガ湖西岸部(カレリア共和国との境界付近)や、国境を挟んだ双子の城砦とし
て知られるイワンゴロド城が該当します。
後者はクルマでエストニアに抜けるだけであれば問題はなさそうですが、国境のナルバ川
に面した城砦や博物館の見学は「団体のみ、事前に立入許可必要」とのこと。対岸のエス
トニア領ナルバ城がロシア側を見渡す観光地と化しているのとは対照的です。あの辺はエ
ストニアでもロシア人居住地のはずですが、同じ川の両岸で国境管理体制がここまで異な
るとは、両国が別種の社会であることを物語っているようですな。

: いえいえ、どうぞ御気に為さらず。こういうお話は大好きです。現地にお暮らしのニキー
: チンさんならではの力作、いつも楽しみにしております。

あまりマイナーな地元ネタを続けると、他の方が書き込みにくくなるのではと危惧してお
りますが、また何か面白い話題があったら寄らせてください。それでは。
No.423 万国旗 господин Ондрей Заков [2004/10/02(土)14:15:16]
我が子の運動会に振り回されたこの一箇月、二日遅れの筋肉痛に
壮年の悲哀を実感する処ですが、万国旗を一瞥した限りにおいて、
義務教育の世界では、ソ連は未だ崩壊していない様です。
No.424 遅れレス2題 ニジェガロージェッツ [2004/10/04(月)03:17:33]
No.422 アファナーシー=ニキーチン さん

「ボロネジ」という都市名は確かに日本語の響きからは珍妙で、特に機械や建設では御法
度ですが、中央連邦管区ではモスクワに次ぐ大都市で、ちょっとした工業都市なんでしょ
うね。
原発や飛行機工場があっても可笑しくないのでしょう。(冷汗)

レニングラード州のイワンゴロドの現地情報も有難うございました。

: 国境のナルバ川に面した城砦や博物館の見学は「団体のみ、事前に立入許可必要」とのこと。
: 対岸のエストニア領ナルバ城がロシア側を見渡す観光地と化しているのとは対照的です。

イワンゴロド自体がもともと、ナルバ川の対岸にあるナルバ市街地の一部で、両大戦間に
は、両岸ともエストニア領だったことから、今でもエストニア・ロシア間に領土問題とし
て残っている事情もあるのでしょう。
エストニアは両国の国境はナルバ川の東8キロのところにあると主張しているようです。

: また何か面白い話題があったら寄らせてください。

こちらこそ、これからも宜しくお願い致します。マイナーな地元ネタ大いに結構ですよ。
お話を楽しみにされている方も多いでしょう。

No.423 Ондрей Заков さん
: 万国旗を一瞥した限りにおいて、義務教育の世界では、ソ連は未だ崩壊していない様です。

お久しぶりです、そして運動会お疲れさまです。
ソ連解体から13年を過ぎた今でも、ソ連国旗が健在とは驚きです。
高校生ぐらいなら兎も角、小学生では生まれた時にはもうあの国がなかったことを考える
と、何とかしても貰いたい所ですね。
面白い話題ありがとうございました。
No.425 ロシア国旗 господин Ондрей Заков [2004/10/05(火)07:45:54]
>解体から13年を過ぎた今でも、ソ連国旗が健在とは驚きです。

現在ロシア国旗は、いわゆるトリコロール・カラーですが、この
色彩共通性も、仏国との歴史的関連性を踏まえたものですかね。

旧ソ連の国旗にある鎌と槌のクロスに、時刻表における食堂車の
記号を連想するのは私くらいのものでしょうか(笑) 
No.426 Re: ロシア国旗 ニジェガロージェッツ [2004/10/06(水)00:35:15]
No.425 Ондрей Заков さん
: 現在ロシア国旗は、いわゆるトリコロール・カラーですが、この
: 色彩共通性も、仏国との歴史的関連性を踏まえたものですかね。

いや、これは寧ろオランダでしょう。
ロシア国旗の横三色旗(上から白青赤の順)のそもそもは、18世紀初頭、ピョートル1世
(大帝)が滞在先のオランダで同国の横三色旗(上から赤白青の順)に触発されて、色の
順序を入れ替えてロシア国旗としたという故事があるようです。

因みに、ロシア国旗の「白」は高貴とベラルーシ(白ロシア)人を、「青」は名誉とウク
ライナ人、「赤」は愛と勇気とロシア人を表すそうで、東スラブ3民族の統合をも表すそ
うです。

#国旗といえば、琉球の風さん如何しているかなあ?
No.427 人口データ更新、一先ず終了 ニジェガロージェッツ [2004/10/08(金)22:58:53]
拙HPでは、ロシア2002年国勢調査結果人口の入手を受けて、既存各ページの人口データ
の更新作業を続けておりましたが、一先ず書き換え作業が終了しました。
モスクワ市の人口に象徴されるように、従来の2001年1月1日の登録人口による推計値とは
随分異なったデータも多く、サハリン州オハ地区コレンド町では、一体何があったのだろ
うかと考えるさせられることも多いですが、全国を網羅した人口データとしては一級のも
ので、これから発表される以降の人口データも今回の国勢調査結果が基準になってくるこ
とと思われます。

あと拙HPでの人口データとしては、「都市別人口の推移 と 過去の都市人口ランキング
」において、1970、1979、1989年の都市人口データが「市別人口推移表」と「ソビエト連
邦の都市人口ランキングII」では異なった数値となっていますが、これは「ソビエト連邦
の都市人口ランキングII」に提示した一の位までの詳細な値が、人口規模の小さい都市ま
で得られていないためによるものです。

また、「連邦構成体別の都市・地区人口データ」の各ページに、民族共和国や自治管区を
中心に、民族別人口を簡単に提示しておりますが、これも1989年の古いデータで、今回の
2002年センサスのデータに書き換える必要がありますが、これらのデータをどういう形で
纏めるかが検討課題として残りました。
参考: http://www.perepis2002.ru/
No.428 記事削除
(当ホームページ、掲示板とは一切無関係の座談会への参加を呼びかける書き込みにつき、
削除させていただきました。)
No.429 国境隣接都市(補足) アファナーシー=ニキーチン さん [2004/10/12(火)01:54:54]
こんばんは。冷え込みのきついサンクトペテルブルクからです。

週末に読んだ地元英字紙にレニングラード州イワンゴロド市のことが出ていたので、少し
調べてみました。前回の書き込みの補足です。

: エストニアは両国の国境はナルバ川の東8キロのところにあると主張しているようです。

恐らくエストニアはEU加盟に際して領土請求は取り下げたものと思いますが、ほかならぬ
イワンゴロド市住民がエストニアへの帰属変更を求めて立ち上がったことがありました。

時は1998年秋のこと。約500名のイワンゴロド市住民がナルバ川対岸のエストニア領ナル
バ市への併合を求めて署名活動を行い、同市議会もこの活動を後押しする声明を出すとい
う前代未聞の出来事がありました。
とはいえ、この出来事は領土問題と言うよりも、同市特有の事情による面が大きいようで
す。

すなわち、歴史的にはイワンゴロド市は対岸のエストニア・ナルバ市の一部で、上水道や
病院から墓地に至るまで社会的インフラがナルバ市側に偏在したままソ連崩壊を迎えてし
まった上、98年当時は経済危機の影響でエストニア側に対する債務の支払いが滞るなど、
生活に深刻な影響が出ていたようです。エストニアとの合併を求める署名活動も、連邦政
府の無策に対する地元民なりの反応だったのでしょう。ロシア語で検索してみると、ロシ
ア下院でも議論されたようで、当時は波紋を広げたようです。

ニジェガロージェッツさんがご紹介されている通り、第二次大戦時にエストニアからロシ
アへ割譲された都市としては、イワンゴロドのほかにプスコフ州ピチョーリ市があります
。同市には市名の通り「洞窟修道院(Псково-Печорский Свято-У
спенский монастырь)」があり、プスコフ発着の日帰りツアー等で簡
単に見物できます。昨年夏に私もこの手で同修道院を訪問しましたが、道中検問所なども
なく、すぐ背後が国境であることを忘れさせてくれる穏やかな観光地でした。似た経緯・
立地にあるイワンゴロド城が普通に観光できる日はいつ来るのでしょうか。

地道な更新作業には頭が下がります。今後の更新も楽しみにしております。それでは。
No.430 Re: 国境隣接都市(補足) ニジェガロージェッツ [2004/10/13(水)02:34:49]
No.429 アファナーシー=ニキーチンさん、いつも貴重な現地情報有難うございます。

もともとエストニア領ナルバ市の一部だったイワンゴロド市と、同じくエストニアに属し
ていたペチョ―ルイ市の閉鎖性のコントラストが見事に出ていて興味深いですね。

それにしても、当のイワンゴロド市民が国境を越えたナルバ市への越境編入を望んでいた
とは驚きました。また、エストニアがEU加盟に際して領土請求を取り下げたというのも意
外でした。

日本ではあまり接する事の出来ない、こういったお話はいつお聞きしても新鮮で、本当に
勉強になります。
ペテルブルクはいよいよ長い冬に入ったようですが、ニキーチンさんに於かれましても、
御身体ご自愛いただければと思います。

: 地道な更新作業には頭が下がります。今後の更新も楽しみにしております。

恐れ入ります。人口データばかりいじっていると頭の中が数字ばかりに浸ってしまい、気
分転換に、1年以上放置していた「フォトギャラリー」を写真を増やして再構成する作業
を進めています。
ところが、自前の写真は古いものばかりで、おまけに、HPの素材として使うには、特定
の個人が写っているような不向きなものがほとんどで、どうしてもっとまともな物を撮っ
てこなかったのかと、今になって悔やまれます。 
No.431 はじめまして 小椋美由紀 さん [2004/10/19(火)09:31:42]
はじめまして、こんにちわ。
私は広島でロシアの現代絵画を皆様にご紹介している
「アート・ソンセ」の小椋と申します。

ロシア、ソ連というと誰もが国名は必ず知っていますが
日本では、なかなか 本当のロシアについての情報は
なかなか入っていません。

私も最初は全くロシアと言われても感心を示していなかったのですが 知れば知るほど興
味深い国ですね。

また、ちょくちょく遊びに来させて頂こうと思いますので
またいろんな情報を お勉強させて下さいませ。
参考: http://www16.ocn.ne.jp/~artsonce/
No.432 Re: はじめまして ニジェガロージェッツ [2004/10/25(月)00:47:39]
No.431 小椋美由紀 さん、書き込み有難うございます。
当HPの管理人のニジェガロージェッツです。

: ロシア、ソ連というと誰もが国名は必ず知っていますが
: 日本では、なかなか 本当のロシアについての情報は
: なかなか入っていません。

確かに情報が少ないですね。しかし、それがロシアという国を一層エキゾチックに感じさ
せる(ロシア人から見て日本もそうであるように)ようにも思えます。

: また、ちょくちょく遊びに来させて頂こうと思いますので
: またいろんな情報を お勉強させて下さいませ。

拙HPは地理・人口データを並べた無機質なもので、小椋様のお役に立てそうにもありませ
んが、こちらこそ宜しくお願い申し上げます。
No.433 お詫び 白桃 さん [2004/10/25(月)01:04:11]
ご無沙汰しております。
さきほど、(グリグリさんの掲示板にて)mikiさんの書き込みに対する投稿をされており
ましたが、私の記事番号34446の書き込みもある意味では「同罪」だと思っております。
深く反省しお詫び申し上げます。
パソコンが故障して初期化しましたので、貴ホームページがお気に入りから消えてしまい
ました。こうやって両毛人さんのHPからたどりつきましたのを機に、また追加させてく
ださい。
今後ともよろしくお願い申しあげます。
No.434 白桃さん、お久しぶりです! ニジェガロージェッツ [2004/10/25(月)02:17:44]
白桃さん(鮎川 さん)、お久しぶりです。

: パソコンが故障して初期化しましたので、貴ホームページがお気に入りから消えてしまい
: ました。こうやって両毛人さんのHPからたどりつきましたのを機に、また追加させてく
: ださい。
: 今後ともよろしくお願い申しあげます。

こちらこそ、今後とも宜しく御願い申し上げます。
最近、2002年全露国勢調査結果データを入手したのに合せて、こちらは白桃さん好み?の
人口データが満載です。(笑)
只今、行政区画別(市域、地区域)の人口データを整理しているのですが、日本に近い沿
海地方から始めて、ようやく極東連邦管区のデータがUP出来そうになりました。
これはかなり膨大な作業になりますが、長期戦になってもカリーニングラードまで行き着
きたいと思っております。お楽しみに。

#(以下、他板グリグリさんの「落書き帳」での話ですが・・・)
「同罪」の件、私はそうは思いません。白桃さんのレスには、被災者の感情を逆撫でする
ような文言は一切なかったように感じましたが。
No.435 ロシア革命直後 господин Ондрей Заков [2004/10/25(月)19:29:09]
今月13日放映されたNHK「その時歴史が動いた」では、ロシア
革命後にソ連が成立するまでの五年間、利権を狙う周辺列強国の
思惑が錯綜する下、革命政権と帝政派との抗争が特集されました。
革命が即、革命政権の領土掌握ではない複雑な経緯が、判り易く
纏められていた感じですが、疑心暗鬼的な後年の圧政も、かかる
確執が一つの伏線となったのか、などと思えたり。

No.433のログに関しては、私自身の表現スタイルに対する容喙を
主たる理由として落書帳を退いた立場上、容喙するなら然るべき
根拠を言明されたし、とするも叶わなかった当時のもどかしさが
某か再来した感じですが、一貫して懐の深いところを見せている
グリグリさんには脱帽の思いですね。
参考: http://www.nhk.or.jp/sonotoki/sonotoki_syokai.html
No.436 Re: ロシア革命直後 ニジェガロージェッツ [2004/10/26(火)23:18:39]
No.435 Ондрей Заков さん

: 今月13日放映されたNHK「その時歴史が動いた」では、ロシア
: 革命後にソ連が成立するまでの五年間、利権を狙う周辺列強国の
: 思惑が錯綜する下、革命政権と帝政派との抗争が特集されました。

小生もその番組を見ました。もちろん、録画もしました。(笑)
リンクを張っていただいた「番組紹介」を改めて拝読すると、番組では触れられなかった
歴史検証の解説もあって面白いですね。

ところでこの十月革命(1917年11月7日)の後、ソビエト連邦の成立(1922年12月30日)
までの5年間の、あの国の正式名称は何だったのでしょうか?
1917年の二月革命で帝政は打破された以上「ロシア帝国」ではなく、また成立していない
「ソビエト社会主義共和国連邦」でもありません。

恐らく、「ロシア‐ソビエト連邦社会主義共和国」(РСФСР)というのが正式な名称
だったように思うのですが…。

(以下、他板の話ですが)
: No.433のログに関しては、私自身の表現スタイルに対する容喙を
: 主たる理由として落書帳を退いた立場上、容喙するなら然るべき
: 根拠を言明されたし、とするも叶わなかった当時のもどかしさが
: 某か再来した感じです

今回の件は、読みようによっては中越地震の被災者の感情を逆撫でするようにもとれる文
言があったので、一言言わせて頂いただけのことで、容喙云々とは状況を異にします。
ただ、雑魚さんが「落書き帳」から身を引かれたご事情は分りませんが、そのご無念は察
しに余りあるものと思います。
No.437 テルミン господин Ондрей Заков [2004/10/30(土)09:52:55]
>そのご無念は察しに余りあるものと思います。

そう言って頂けると溜飲が下がる思いです。さりとて機会あらば
古巣に復帰したいか、というと、そうでもないのですけどね。

さて、今回は音楽の話。先日、音楽仲間との雑談で、ロシア発の
世界最古の電子楽器「テルミン」の話題が出ました。これは以前
運転中に聞き流したラジオの報道番組で紹介された時に、実際に
どの様な音が出るのか耳にしたのですが、何とかの振舞いという
物理現象から生じる音は、胡弓を抑揚無く弾いた様な印象でした。

微妙な手の翳し方で音域が変わる為、きちんとした旋律の表現に
至るまでには、某かの修練期間を要するとの事ですが、こうした
代物の発信地ともなった辺り、ロシアでの深遠な文化性を感じる
Заковでした。
参考: http://theremiemin.zero-yen.com/nandaro.html
No.438 Re: テルミン ニジェガロージェッツ [2004/11/03(水)02:07:19]
No.437 Ондрей Заков さん
テルミンのご紹介、有難うございました。ここ数日、ネットに接続できる状況ではなかっ
たため、レスをお返しするのが遅くなってしまいました。

: さて、今回は音楽の話。先日、音楽仲間との雑談で、ロシア発の
: 世界最古の電子楽器「テルミン」の話題が出ました。
: (中略)何とかの振舞いという物理現象から生じる音は、
: 胡弓を抑揚無く弾いた様な印象でした。

リンクを張っていただいたサイトから、早速テルミンの音色を試聴しました。どこか切な
いような音色は、ロシア発の楽器だけに、播州龍野を舞台とした「赤とんぼ」の懐しい温
かい雰囲気も良いですが、モスクワ郊外の夕べ Подмосковные вечера
 が良く響きますね。
 
それにしても、世界初の電子楽器テルミンが発明されたのは1920年ということで、ロシア
では革命期の大変な混乱した時代で、研究に成功した若きレフ・テルミン氏もまた、その
能力を買われ政府機関に監禁され、無線交信のスパイ業務に強制労働させられた経緯が紹
介されていましたが、苦難の人生を歩まれた由。
テルミンの持つ独特の切ない音色には、この楽器に隠された苦難の歴史を感じずにはいら
れません。
No.439 芸術の受難 господин Ондрей Заков [2004/11/03(水)14:56:54]
>無線交信のスパイ業務に強制労働させられた経緯

疑心暗鬼的な風潮に象徴されたであろう、スターリンの時代には
芸術も「社会主義リアリズムとの整合性」を理由に、色々な面で
翻弄されていますしね。革命に対する翼賛的主題の交響曲を多数
残したショスタコーヴィチにしても、後に西側に亡命した弟子が
表向きは翼賛的でも、実は面従腹背的な主題を内包していたとの
発言をしています。

音楽に関して言えば、戦中の日本では「絶対音感」能力者を以て
襲来敵機の音から機種を割り出す試みも行われた様ですが。 
No.440 Re: 芸術の受難 ニジェガロージェッツ [2004/11/03(水)15:55:29]
Заковさん、こんにちは。レス有難うございます。

: 革命に対する翼賛的主題の交響曲を多数残したショスタコーヴィチにしても、
: 後に西側に亡命した弟子が表向きは翼賛的でも、実は面従腹背的な主題を
: 内包していたとの発言をしています。

奥の深い話ですが、比喩表現の豊かなロシアではご尤もと頷けます。
 
: 音楽に関して言えば、戦中の日本では「絶対音感」能力者を以て
: 襲来敵機の音から機種を割り出す試みも行われた様ですが。

そんなことがあったのですか。存じませんでした。
かくいう小生も、幼少のごく一時期に亡き母の手ほどきでピアノに向き合ったことがあり
、40を過ぎた今でも、音を耳にするとドレミファを言い当てる事があります。
音楽に造詣の深いЗаковさんも音感をお持ちと推察しますが、時代が時代なら、我々
も前線に駆り出されていたところですね。
No.441 またお邪魔しました 白桃(鮎川) さん [2004/11/03(水)18:24:18]
今日は、一日中10月1日の推計人口がらみの人口整理。と、いいたいのですが、稲生さん
のHPに顔を出したりで、うろうろしておりました。というのも、ノーテンキの私もさす
がに今日の落書き帳には書きこむ気持ちになれませんでした。まぁ、いろんな方がいるよ
うで。ニジェさんにもトンだ流れ弾が飛んできましたね。まったく無視すれば良いと思い
ます。
ところで、昨夜夕刊紙を見てたら、損害保険会社が地震の被災確率や被害の程度を考慮し
て、都道府県を危険度に従い4段階に分けている、という記事が目にはいりました。その
分類の仕方が適切かどうかは、この際置いとくとして、こういったあまり表面に出てこな
い震災にからむ情報を公開するか否かについては、どうお考えでしょうか。私としては、
然るべき研究機関が正確・詳細かつ客観的に調査したものであれば、もっと積極的に公開
しても良いのではないかと思っております。情報開示により、不利益をこうむる業者や、
不安をいだく地域住民が発生するとは思いますが、生命にかかわることでありますので、
知らないよりは、知っていたほうが良いと考えます。人々には、その土地での暮らしがあ
り、その地域への愛着もあり、「日本で一番危険な地域だ」という宣告を受けても殆どの
人は、住んでいるその土地から離れないでしょうけれど・・・。大震災に遭遇された経験
のあるニジェさんは、私と異なるお考えをお持ちではないかと考えております。
No.442 Re2: テルミン господин Сомпин Сомринович Пражний [2004/11/03(水)22:41:44]
: リンクを張っていただいたサイトから、早速テルミンの音色を試聴しました。どこか切な
: いような音色は、ロシア発の楽器だけに、播州龍野を舞台とした「赤とんぼ」の懐しい温
: かい雰囲気も良いですが、モスクワ郊外の夕べ Подмосковные вечера
:  が良く響きますね。

三ヶ月以上もご無沙汰しておりました.
テルミンといえば,英国のロック・バンド,Led Zeppelin がライヴでしばしば効果音的
に使用していました.「永遠の詩/The Song Remains the Same」というアルバムで聴い
た記憶があります.

No.437 Ондрей Заков さんが記していらっしゃるとおり,「きちんとした旋
律の表現」は難しいようですね.
No.443 地震等地 ニジェガロージェッツ [2004/11/04(木)23:07:55]
No.441 白桃さん(鮎川さん)
昨日の「落書き帳」での一件、お気遣い有難うございます。さすがに衝撃的な幕切れに唖
然とさせられました。

: 今日は、一日中10月1日の推計人口がらみの人口整理。と、いいたいのですが、

いえいえ、白桃さんが日本の人口を的確に整理しておられるからこそ、小生は安心して某
国の人口データ整理に邁進できるのですよ。(笑)

: ところで、昨夜夕刊紙を見てたら、損害保険会社が地震の被災確率や被害の程度を考慮し
: て、都道府県を危険度に従い4段階に分けている、という記事が目にはいりました。

地震保険料の算定に用いられる「地震等地」という考え方ですね。

: 分類の仕方が適切かどうかは、この際置いとくとして、こういったあまり表面に出てこな
: い震災にからむ情報を公開するか否かについては、どうお考えでしょうか。

私は大いに公開しても良いと思います。
震災前の神戸では、「神戸には地震はない」という全く根拠不明の伝説が実しやかに語ら
れていました。私は神戸の地理に多少なりとも興味があったので、六甲山系は活断層によ
って生じた隆起による山地帯と知っていたので、「それは嘘だ」と断じていましたが、そ
れでも、私達の時代にあのような悲劇に襲われるとは正直思いませんでした。
「地震等地」のランク付けでは、東海地震の危惧が言われる最危険地の「4等地」の静岡
、神奈川、東京に次ぐ、「3等地」に兵庫県はランクされています。これを知っているだ
けでも、神戸地震無縁説は覆っていた筈です。

但し、たとえ危険度が低いといっても、本当に地震に無縁のニジニノヴゴロドのような所
とは違い、4つのプレート(北米、ユーラシア、フィリピン海、太平洋…だったかな?)
がせめぎ合う日本列島では、至る所断層だらけです。「この付近には活断層など走ってい
ない」と言われている地域でも、実のところ断層が発見されていないだけのことかも知れ
ません。
たとえ「地震等地」で「1等地」にランクされている道県でも、直下型地震に襲われる可
能性はあり、いざの時には倒壊家屋から人を助け出すぐらいの心構えと道具の備えは必要
と思います。
参考: http://homepage1.nifty.com/masakihi/jishin/tohchi.html
No.444 タモリ倶楽部 господин Ондрей Заков [2004/11/06(土)09:47:29]
>音を耳にするとドレミファを言い当てる事があります。

という事は、ニジェさんもかなりの音感の持ち主だと思いますよ。
ただしこの音感は時として思わぬ弊害もあります。小学校時代に
多用したハ長調基本のソプラノ・リコーダーについて、我が子に
演奏方法を教えようとしたところ、中学・高校以来愛用している
ヘ長調基準のアルト・リコーダーの運指と音域が永らく頭の中で
固定化されていた為、理屈では判っているのに、移動音階に指が
ついて行けず、かなり下手糞な演奏となってしまいました。

クラシック・コンサートで、良く知る曲が半音ずれて演奏された
事があったのですが、そのズレが気になってしまい素直に演奏を
楽しめなかった事もあります。

>時代が時代なら、我々も前線に駆り出されていたところですね。

趣味の列車撮影に何度か付き合って貰った経緯から、妻子の場合
轍の音で、鉄道車両がある程度は判る様になったという、思わぬ
効果はありました(笑)

==========================================================

さて、ニジェさんは昨夜「タモリ倶楽部」御覧になりましたか?
殆ど趣味としての鳥瞰図制作の現場が紹介されまして、鉄道など
造詣が深いタモリの「地図好き」振りが明らかになった次第です。
(白地図の並行破線表記だけで上越線の清水峠と見破りました)
そんな中、バイカル湖やアマゾン河口の制作例も紹介されまして、
前者では「この線表記はシベリア鉄道だろう?」とタモリ。是非
「落書き帳」に御登場頂きたいですね(笑)
No.445 Re: タモリ倶楽部 ニジェガロージェッツ [2004/11/07(日)00:31:52]
No.444 Ондрей Заков さん

: さて、ニジェさんは昨夜「タモリ倶楽部」御覧になりましたか?
: 殆ど趣味としての鳥瞰図制作の現場が紹介されまして、鉄道など
: 造詣が深いタモリの「地図好き」振りが明らかになった次第です。

そんな面白い番組があったのですか!
残念ながら見ていません。ここ数日来バタバタしていて、昨日は帰宅早々に寝入ってしま
いました。ただただ残念です。
No.446 タモリ倶楽部、関西地区の放送は毎週水曜日 YSK さん [2004/11/07(日)19:52:07]
ご安心ください。関西ではタモリ倶楽部の放送日は違います。
毎週水曜 25:29〜 (つまり木曜午前1:29〜)です。

関東でタモリ倶楽部が放送されている時間帯は、関西では超人気番組「探偵!ナイトスク
ープ」が放送されております。

という私ですが、鳥瞰図が取り上げられたというタモリ倶楽部は見ませんでした・・・。
#宮城県在住時代よりナイトスクープのファンでして、タモリ倶楽部を見る習慣がないの
です・・・。
No.447 これは有難い! ニジェガロージェッツ [2004/11/07(日)21:09:31]
No.446 YSK さん、情報有難うございます。
: ご安心ください。関西ではタモリ倶楽部の放送日は違います。
: 毎週水曜 25:29〜 (つまり木曜午前1:29〜)です。

おお!これは有難い。早速webザテレビジョンで確認しましたが確かに仰るとおりです。
水曜日の深夜を楽しみに待ちましょう。バイカル湖の鳥瞰図ですか。ワクワクです。
No.448 <ロシア国家プーシキンバレエ舞踊団経典バレエ「白鳥の湖」> ユーラ さん [2004/11/08(月)23:17:34]
ニジェさん お久しぶりです。
「ロシアのバレエ団情報」のユーラです。

さて、いつものようにWeb検索をしておりましたら、以下のような見出しの付いた日本語
ページが!?

<ロシア国家プーシキンバレエ舞踊団経典バレエ「白鳥の湖」>
時間:2004年12月15日-2004年12月17日 
会場:保利劇院 
票价:120/180/280/380/500/680/880 

詳細紹介 
ロシア国家「プーシキン」バレエ団は1935年はロシアに成立され、
60年以来、「くるみ割り人形」、「白鳥の湖」、「眠りの森の美女」、「海賊」などシリ
ーズバレエを製作しました。
飛抜けた演技力と表現力によって、国際バレエ界で絶好評価を遂げました。
注意:今はチケット販売中 

『ロシア国家プーシキンバレエ舞踊団』というのは、おそらく
『ロシア国立ニジニーノヴゴロド・プーシキン記念オペラ・バレエ劇場バレエ団』のこと
だろうと思われますが、「経典バレエ」とは何なのでしょう?
中国語ふう日本語はムズカシイですね〜!

「ロシアのバレエ団情報」
http://www.geocities.jp/yura_ballet/
参考: http://www.piao.com.cn/jp_piao/zhongjiye.asp?96
No.449 ニジニの「オーペルヌイ・チアートル」 ニジェガロージェッツ [2004/11/09(火)22:30:33]
No.448 ユーラ さん、こちらこそご無沙汰致しております。

: さて、いつものようにWeb検索をしておりましたら、以下のような見出しの付いた日本語
: ページが!?

いつもながら、積極的に情報を集められ、細かなホームページ運営を続けておられるよう
で、頭が下がります。

ご紹介いただいた「ロシア国家プーシキンバレエ舞踊団」は、私もニジニノヴゴロドのバ
レエ団のように思います。懐かしい〜!
ニジニ滞在中は、特に観劇が趣味でもないにも拘らず、生で見るバレエ団の迫力と素晴ら
しさ、それにチケットの法外な安さ(当時は日本円換算でチケット1枚20円〜200円)に釣
られ、私も足繁く劇場に通った1人でした。
何度か観劇の後に楽屋を表敬訪問させて頂いたこともあります。
役者の皆さんも友人のように訪問を歓迎して下さって、こちらが恐縮したぐらいです。当
然皆さん芸達者な方ばかりで、こちらも一芸を披露しないといけないような雰囲気になり
、とはいえ芸には無縁の私は、咄嗟に持っていた千円札の夏目漱石の顔を折り曲げて、漱
石氏の笑った顔と泣いている顔を作ってお見せしたところ(日本では古典的なおふざけで
、芸でも何でもないのですが)、何か大受けした記憶があります。

同バレエ団は、世界中で公演を続けていたようで、今回は北京公演ですか。
面白い情報有難うございました。>ユーラさん

情報満載のユーラさんの「ロシアのバレエ団情報」はこちら
 ↓ ↓ ↓
参考: http://www.geocities.jp/yura_ballet/
No.450 北海道の市町村合併情報の作成に関して 稚拙 さん [2004/11/12(金)14:37:47]
はじめまして。ぼくは9月からグリグリさんの落書き帳を見ている稚拙という者です。

ぼくは「図解!市町村合併」というサイトをつくっているのですが、このたび12月1日
に函館市の合併を図にするに際していわゆる北方領土を含めないことについての「注意書
き」を行いたいのです。以下の3つのうちいずれかにしたいのですが、どれにしたらいい
と思いますか?

(1)独立した町村名のある離島は礼文・利尻・奥尻のみ示します。また、根室市は本土の
み示します。
(2)日本の市役所・役場のある地域のみ示します。
(3)ロシアにおいて「クリル南部地域」と認められている地域を除きます。

突然ですが、よろしければお考えをおきかせください。
判断が付かないという回答でもけっこうです。その場合、自分で考えて3つのうちいずれ
かにします。
参考: http://zukaigappei.gozaru.jp/
No.451 Re: 北海道の市町村合併情報の作成に関して ニジェガロージェッツ [2004/11/12(金)21:00:28]
No.450 稚拙 さん、はじめまして。管理人のニジェガロージェッツです。
グリグリさんの「落書き帳」にて紹介しておられた貴サイト、私も楽しく拝見させて頂い
ております。市町村合併について、思い切ったロゴの組み合わせのような図解で解りやす
く工夫された、見ていて飽きの来ないサイトだと感心しております。

さて本題ですが、貴「図解!市町村合併」の北海道のページに、北方領土を図示しないこ
とを前提とした注釈について、敢えて私見を述べさせていただくとすれば、

: (3)ロシアにおいて「クリル南部地域」と認められている地域を除きます。

が近いと思います。但し、それだけでは分りにくいので、若干長くなりますが、折角市町
村名を扱ったサイトですから、仮に私が作成するとすれば、
「ロシア実効支配化の北方領土に属する蘂取村、紗那村、留別村(以上択捉島)、留夜別
村、泊村(以上国後島)、斜古丹村(色丹島)および根室市の一部(歯舞諸島)を除く」
と書添えます。

なお、蛇足ですがロシア側の見地に立って「クリル南部地域」とは、行政上「南クリル地
区(Южно-Курильский район)」を指し、これは国後、色丹、歯舞を
範囲とし、択捉島は「クリル地区(Курильский район)」に属します。
日本との領土交渉においては外交的に「北方4島」とは言いますが(ロシアでも「北方領
土(Северные территории)」と言います)、国内的にはそのような
概念を持っていません。

参考までに、サハリンの行政区画と拙サハリン州地図を出しておきます。
参考: http://www.hi-net.zaq.ne.jp/nizhniy-kobe/subekt.sakhalin.htm
No.452 Re2: 北海道の市町村合併情報の作成に関して 稚拙 さん [2004/11/14(日)05:19:42]
たいへんありがとうございます!

: 「ロシア実効支配化の北方領土に属する蘂取村、紗那村、留別村(以上択捉島)、留夜別
: 村、泊村(以上国後島)、斜古丹村(色丹島)および根室市の一部(歯舞諸島)を除く」
: と書添えます。

きのう考えたのですが、北海道は4分割して描くことにしました。
しかし函館と積丹半島の泊村は同じ図にするので、泊村を泊村(1)
と描かない理由としてこの文章を書くことにいたします。

ニジェガロージェッツさんに質問して良かったです。また質問する
かもしれませんのでよろしくお願いします。
No.453 レス2題 ニジェガロージェッツ [2004/11/19(金)01:04:11]
No.444 Ондрей Заков さん
No.446 YSK さん
お知らせ頂いた「タモリ倶楽部」の鳥瞰図特集、こちらでは昨夜放送されていました。も
ちろん、面白く拝見させて頂きました。

製作に8ヶ月を要したという東京の大鳥瞰図も見事でしたが、遠く日本列島まで描かれて
いるバイカル湖の鳥瞰図も面白かったです。地図好きには、30分番組では勿体無い内容で
した。

鳥瞰図といえば、私が個人的にその緻密さとスケールに圧倒されたのは、戦前の神戸で描
かれた大鳥瞰図で、これには昭和10年代の神戸市街地の様子がまるで1軒1軒の家を忠実に
描いたようなもので、黒色ペン仕上げながら見事なものでした。
この鳥瞰図は戦前期に存在した「神戸又新日報社」が社運を掛けて一大プロジェクトとし
て製作したものでしたが、軍部の検閲により出版不許可となり、それでも港に停泊する船
舶からの汽煙を描き、機密部分を隠したりしたものの不許可は覆らず、結果として「神戸
又新日報社」は倒産の憂き目を見た幻の作品でしたが、1978年頃に発見されました。
http://www.hanshin-awaji.or.jp/museum/tizugaku2.html
に、この図が掲載されています。
(ここには「神戸又新日報社」が、現在の「神戸新聞社」の前身のような解説があります
が、両者は全くの別会社でした。)

No.452 稚拙 さん
レス有難うございます。
何とかお役に立ちましたでしょうか?
ただ、拙稿No.451の文中
: 「ロシア実効支配化の北方領土に属する・・・
と書いてしまいましたが、「実効支配化」ではなく、「実効支配下」の間違いです。
お恥ずかしい。
No.454 肉体疲労時の栄養補給 господин Ондрей Заков [2004/11/27(土)16:34:41]
>もちろん、面白く拝見させて頂きました。

楽しんで頂けた様で、何よりでした。

>地図好きには、30分番組では勿体無い内容でした。

御意。例えば文字情報を隠した地図を掲出して、場所を特定する
クイズ選手権とか「TVチ○ンピオン」等で企画すると、かなり
濃い内容で異様に盛り上がるのではないか、と妄想する昨今。

昨夜、就寝中にふと疑問に思ったのですが、大○製薬がロシアに
進出した場合、主力商品は「リ○ビタン Д」になるのでしょうか。
どうでも良い話ですが、気になって昨夜は寝不足気味でしたw
No.455 Re: 肉体疲労時の栄養補給 ニジェガロージェッツ [2004/11/28(日)23:56:00]
No.454 Ондрей Заков さん

: 御意。例えば文字情報を隠した地図を掲出して、場所を特定する
: クイズ選手権とか「TVチ○ンピオン」等で企画すると、かなり
: 濃い内容で異様に盛り上がるのではないか、と妄想する昨今。

うちでもやりましょうか?
ロシアの20万分の1の地形図を用いて・・・。
とはいえ、ロシアを舞台にこんなクイズやっても誰も答えてはくれないと思いますので、
今まで考えた事もありませんが。

: 主力商品は「リ○ビタン Д」になるのでしょうか。

仮にそういったことが現実となったとしても、恐らく「リ○ビタン D」のままではない
でしょうか。
ロシアでは「D」を「デー」と読みますから、あまり違わないですね。
面白いのは「C]を「ツェー」とロシア人は読みます。
No.456 Re2: 肉体疲労時の栄養補給 господин Сомпин Сомринович Пражний [2004/11/30(火)16:42:43]
No.455 ニジェガロージェッツさん
: 面白いのは「C]を「ツェー」とロシア人は読みます。

ドイツ語風ですね.音楽の世界ではドイツ語音名がよく使われます.
さらにドンバ(バンドマン)用語では「ツェー」は「1」を表す隠語.
No.457 元気溌剌 господин Ондрей Заков [2004/11/30(火)17:08:35]
>面白いのは「C]を「ツェー」とロシア人は読みます。

うーん「オロ○ミン・ツェー」ですか………ヨン様も困惑ですね。
すると、サン○リーの「CCレ○ン」の場合は………(噴飯)

>ドンバ(バンドマン)用語では「ツェー」は「1」を表す隠語.

「とんねるず」石橋貴明さんが「業界用語」として多用していた
「ツェーセン/千円」「ツェーマン/壱万円」もその産物かな?
「デルモ」「ジャーマネ」など、兎に角、シャッフルした語感が
何となく業界通という雰囲気でしたっけ。
No.458 Re: 元気溌剌 ニジェガロージェッツ [2004/12/02(木)01:42:04]
No.456 Сомпин Сомринович Пражний さん
: ドンバ(バンドマン)用語では「ツェー」は「1」を表す隠語.

これは全く存じませんでした。面白いお話有難うございます。

No.457 Ондрей Заков さん 
: うーん「オロ○ミン・ツェー」ですか………ヨン様も困惑ですね。

もしロシアでこの商品が出回るとすれば、間違いなくそう呼ばれることでしょう。
向こうで一番よく聞いたのは「ヴィタミン・ツェー」でしたが。

: すると、サン○リーの「CCレ○ン」の場合は………(噴飯)

個人的には「エスエスレモン」と言って欲しいのですが・・・、さすがにそこまでは連中
も酔狂ではないようで・・・・。
No.459 行政区画別人口シリーズ 完結! ニジェガロージェッツ [2004/12/06(月)01:48:16]
2002年全ロシア国勢調査結果による、行政区画別の人口表がようやく西端のカリーニング
ラードまで完成し、ようやく完結を見ました。
http://www.hi-net.zaq.ne.jp/nizhniy-kobe/adm_territory.htm

当ホームページを開設したときから、このような人口表を作って見たかったのですが、従
来では断片的かつ概数しか入手できなかったロシア各地の人口データからは、ここまで縦
横計算のきっちりした表が出来るとは思っても見ませんでした。

作業をやっていて、色々と意外な発見もありました。
例えばイングーシ共和国では、「オルジョニキーゼフスカヤ村」という人口65,112人の大
村の存在。おそらく、正確な境の画定が為されていないチェチェン共和国境に位置するた
めに、行政組織をいじれないのかもしれませんが、僅か人口275人の首都マガス市と比べ
て、このアンバランスはこの地域の混乱を垣間見るようです。
また、この「オルジョニキーゼフスカヤ村」を中心とするイングーシ共和国スンジャ地区
は、チェチェン共和国にも同名の地区があり、2共和国分断以前は一つの地区だったかも
知れません。
ロシアで発行されている地図には、両共和国の国境は未画定ということで図示していない
ものが多いのですが、手持ちの1999年発行「ロシア小地図帳」には、国勢調査でチェチェ
ン側に数えられているスンジャ地区の2村(セルノヴォーツコエ村9,860人、アッシノフ
スカヤ村10,248人、地区合計20,108人)はイングーシ側の村落として図示されています。

あと、No.248でアファナーシー=ニキーチンさんから分り易くご教示いただいた、サンク
ト=ペテルブルクの謎についても、確認が出来ました。
ニキーチンさんの的確なフォローに改めて感謝です。  
No.460 マガス市 господин Сомпин Сомринович Пражний [2004/12/07(火)18:59:17]
No.459 ニジェガロージェッツさん
: 作業をやっていて、色々と意外な発見もありました。
: 例えばイングーシ共和国では、「オルジョニキーゼフスカヤ村」という人口65,112人の大
: 村の存在。おそらく、正確な境の画定が為されていないチェチェン共和国境に位置するた
: めに、行政組織をいじれないのかもしれませんが、僅か人口275人の首都マガス市と比べ
: て、このアンバランスはこの地域の混乱を垣間見るようです。

「ロシア市人口ランキング 1.5万人未満」のページを見て驚きました.2001年1月のマガ
ス市の人口は100人!
2002年10月の国勢調査時でも人口5000人未満の市が32,2000人未満の市が4つも!(さす
がに3桁はマガス市だけですが)
「市」という言葉を日本における概念で語ってはならないのですね……

興味深いデータの数々を見せて下さるニジェガロージェッツさんに感謝!
参考: http://www.hi-net.zaq.ne.jp/nizhniy-kobe/city_rank-russia2002-5.htm
No.461 マガス市の謎 ニジェガロージェッツ [2004/12/08(水)02:34:22]
No.460 Сомпин Сомринович Пражний さん
: 「ロシア市人口ランキング 1.5万人未満」のページを見て驚きました.2001年1月のマガ
: ス市の人口は100人!

イングーシ共和国の新首都マガス市についてですが、2000年の創設となっています。私が
最後にロシアを訪れたのが2000年の夏のことですが、この時、モスクワなどで購入した数
々の地図類には、まだこの街が表記されているものはありませんでした。もちろん、首都
はナズラニのままです。

比較的新しい地図にも載っていない事から、既存の集落ではなく、全く新しく建設された
ものでしょう。ですから2001年1月の人口はまだ100人(有効数字からすれば50〜149人)
しか居ないとしても、そんなことも有かなと思いました。「市」の称号が建設当初から与
えられていることも、共和国の首都として、当然のことだったかも知れません。

それよりも、もっと不思議というか意外だったのは、建設から2年経った2002年10月現在
の国勢調査人口が275人(内訳:男135、女140人)にしか増えていないことです。
「首都」と言うからには、共和国政府関係者やその家族が住むだけでも、もっと多くて当
然のように思えてなりません。

そもそも、マガス市を一から建設してまで、ナズラニから遷都する必然性は一体、何だっ
たのか?チェチェン戦争との関連性はどうなのか?
このあたりは、チェチェン戦争について調べておられる方が詳しいのではないかと思いま
すが、私には解りません。


: 「市」という言葉を日本における概念で語ってはならないのですね……

ロシア語の「ゴーラト」に相当する日本語が他に無いからでしょうね。
日本の「市」とは違い、ロシアの「村」に「降格」されることがあるのも特徴的です。
今は「町」となっているシベリアのかつての要衝コリヴァン(拙稿No.118参照)も、市か
ら村に改組され、後に「町―都市型集落」になっています。
オホーツク海にその名を冠するオホーツクは、今は「町」ですが、元は「市」でした。後
に「村」となり、1949年「町」となっています。
ニジニノヴゴロド州にある1998年に「市」に昇格した人口7千人足らずの「クニャギニノ
市」は、実は
1779年「市」→1925年「村」→1968年「町」→1998年「市」
という返り咲きの変遷を辿っています。

ところで、ロシアに於いては、各連邦構成体(共和国、州など)によって、「市制要件」
が違っているのではないでしょうか?
ロシアの連邦制では、地方自治に関連する一般原則を連邦が定め、それに従って連邦構成
体が地方自治の制度を決めることになっており、行政区画は連邦構成体が決めるので画一
ではないようです。

今回作成した行政区画別の人口表にも、連邦構成体によっては、バシコルトスタン共和国
のように「市」が全く「地区」に属さない直轄市になっているところや、コミ共和国の全
「市」は、市管轄下に農村が含まれていたり、ウドムルト共和国のように「市」は農村を
含まず1市のみで構成されていたり、いろいろ特徴が出ています。

 
: 興味深いデータの数々を見せて下さるニジェガロージェッツさんに感謝!

勿体無いお言葉、有難うございます。何か拙HPが報われたような気がします。
で、次は何をしようかなと・・・(汗)
No.462 ヴェプス民族郷 アファナーシー=ニキーチン さん [2004/12/09(木)00:15:59]
こんばんは。ご無沙汰しております。労作の完成おめでとうございました。

: 行政区画は連邦構成体が決めるので画一ではないようです。

ニジェガロージェッツさんが「目次」で言及されている「コジューン」とか「ウルス」と
か、地域によって珍しい行政単位があるのもそのせいでしょうね。

カレリア共和国のヴェプス民族「郷」のволостьというのも現代ロシア語では死語
でしょう。カレリアは北海道の2倍以上ある大きな共和国で各地区(район)とも日
本の県くらいの面積があるのですが、この「ヴェプス民族郷」ははるかに小さく(820平
方km)、地区よりも格下の行政単位として昔の用語を持ち出してきたのでしょうか。

実はアファナーシー=ニキーチン、ロシアで唯一のこの「民族郷」を訪問したことがあり
ます。名前の通りヴェプス人というフィン系少数民族の居住地域で、9月の黄葉の時期に
カレリアへ週末ドライブに出かけた際、шелтозероのヴェプス民族博物館を見て
きました(発音はшЁлтозероのようです)。ペトロザボーツクから80kmの道中は
集落も少なく、バスは一日2往復という僻地でした。

博物館の人の話では、「民族郷」人口の4割強がヴェプス人で、中心地шёлтозеро
の学校ではカレリア人もロシア人も皆ヴェプス語の授業が必須なんだそうです。現在の
「民族郷」なる珍しい行政単位は民族意識が高まった結果94年に出来たもののようですが
、古くは戦間期にも民族地区というのがあったようですね。

ヴェプス人の住居や文化を紹介した博物館の他、地域内で産出する暗赤色をした石材
(малиновый камень)が有名なようです。赤の広場の石畳やレーニン廟など
で使われているあの独特な色の石がそれだそうです。
なにぶん交通の便は悪いのですが、土地柄フィンランドからの旅行者がよく来てくれるそ
うで、私で日本人は二人目だと言われました・・・。ただの一見学者として行ったのです
が、郷土菓子を頂いたり、民族音楽を聞かせてもらったり、ロシアのこの手の博物館にし
ては非常に親切でした。

ついつい思い出話で長文と化してしまい、失礼しました。この辺でやめておきます。
No.463 Re: ヴェプス民族郷 ニジェガロージェッツ [2004/12/10(金)20:46:00]
No.462 アファナーシー=ニキーチン さん
ヴェプス民族郷についての詳細なレポート、有難うございます。
ニキーチンさんが実際に旅された(!)、ヴェプス民族「郷」についての細かな描写で、
行ったことのない小生にも、その光景が目に浮かぶようです。

: カレリア共和国のヴェプス民族「郷」のволостьというのも現代ロシア語では死語
: でしょう。

件の行政区画別人口表を編集している際、ここ1か所しかない、この“волость[ヴ
ォーラスチ]”という特殊な行政単位をどう日本語で表せば良いか、正直なところ悩みま
した。
「リュ―リック朝ルーシ」からある行政単位の名称で、帝政ロシア時代までは、“уез
д[ウイェースト]”=「郡」と、“село[セロー]”=「村」の中間の地域行政単位と
した上で、「郷」と露和辞典では訳されていました。
結局このまま「民族郷」と表記したのですが、これだと何だか旅情を誘う観光地の名称み
たいで、苦笑しました。

: カレリアは北海道の2倍以上ある大きな共和国で各地区(район)とも日本の県
: くらいの面積があるのですが、この「ヴェプス民族郷」ははるかに小さく(820平
: 方km)、地区よりも格下の行政単位として昔の用語を持ち出してきたのでしょうか。

ロシアの地理サイト“Мой Город”のカレリア共和国のページには、行政区画地
図が掲載されています。
http://www.mojgorod.ru/r_karelija/index.html

この地図で、首都ペトロザヴォーツク市の南西のオネガ湖南岸、レニングラード州との境
にある小さな区画が「ヴェプス民族郷」ですね。地図上には、「19」番の符合が打たれて
います。

他のサイトにも、同様の地図があり、地区名も併記されています。
http://openbudget.karelia.ru/budnord/russian/northern/karelia-republic/karelia_nav.htm
こちらでは、「9」番の符合が打たれています。
また、カレリアの行政区画のうち「コストムークシャ市」と「ソルタヴァラ市」は、「地
区」並の領域を持った直轄市であることが分ります。

ところで、前出の“Мой Город”のカレリア共和国地図をクリックすると、カレ
リア共和国政府のサイトにある同じ地図にジャンプするのですが、この地図はよく見ると
「ヴェプス民族郷」が消えて、隣の「沿オネガ地区 Прионежский район
 」に吸収されています。
http://www.gov.karelia.ru/Regions/admin.html

同じ共和国政府のサイトにある地方自治体の一覧には、「ヴェプス民族郷」が「沿オネガ
地区」の下部組織であるかのような配列になっています。
http://gov.karelia.ru/gov/Regions/index.html

2002年10月の国勢調査結果人口表には、両者は明確に区分されていることから、後に地方
自治体としての「民族郷」を保ったままで、行政区画としては「沿オネガ地区」に統合さ
れたのかも知れません。

更にリンクを辿ると、この「郷」820.19平方キロの土地利用が、「森林747.65、集落8.94
、工業および交通用地6.38、農地47.74、予備用地9.65、水面10.77平方キロ(全部足せば
831.13平方キロになるのですが??・・・埋立でもしたんかいな、まさか)などと個人的
に興味深いデータがあります。

しかし、もっと面白いのは、「郷」に3つの村行政機関があり、全部で13の集落があるの
ですが、その地名一覧表にはロシア語とヴェプス語の全く違った地名が書かれていること
です。

: (発音はшЁлтозероのようです)
フォロー有難うございます。早速、表の方は訂正しておきました。

: 現在の「民族郷」なる珍しい行政単位は民族意識が高まった結果94年に出来たものの
: ようですが、古くは戦間期にも民族地区というのがあったようですね。

ロシアの社会科で使われる20世紀の歴史地図をみると、この付近一帯は第二次大戦の一時
期、独芬軍に占領されていたようです。
(ファシストの「独」と、ソ連に無理難題を突きつけらた結果、止むを得ず枢軸側に立っ
てソ連と戦った「芬」を同一に扱うのは抵抗がありますが…)
ソ連による「解放」後に、例によって「敵に与した」とか難癖をつけられての民族地区解
散では?・・・とは、深読みのし過ぎでしょうか?

: なにぶん交通の便は悪いのですが、土地柄フィンランドからの旅行者がよく来てくれるそ
: うで、私で日本人は二人目だと言われました・・・。ただの一見学者として行ったのです
: が、郷土菓子を頂いたり、民族音楽を聞かせてもらったり、ロシアのこの手の博物館にし
: ては非常に親切でした。

面白いお話、本当に有難うございます。
ロシアの田舎へ行くと、「遠来の珍客」には底なしのもてなしが待っているようですね。
それにしても、前回の「イヴァンゴロド」のお話とか、ペテルプルクは北欧諸国の国境に
近いせいか、その周辺には見どころが尽きないですね。
参考: http://gov.karelia.ru/gov/Regions/Veps/vepnac.html
No.464 Re2: ヴェプス民族郷 アファナーシー=ニキーチン さん [2004/12/11(土)02:05:09]
こんばんは。詳細なレスありがとうございます。

: ロシア語とヴェプス語の全く違った地名が書かれていること

本当ですね。カレリアには〜озероで終わる地名が非常に多いのですが、博物館の方
はшёлтозероの語源はヴェプス語だと言ってました。フィン系の地名にロシア語
で「〜湖」と語尾を付けてしまったのかもしれません(?)。

: ソ連による「解放」後に、例によって「敵に与した」とか難癖をつけられての民族地区解
: 散では?・・・とは、深読みのし過ぎでしょうか?

手元のロシア語の資料によれば、「冬戦争」前の1930年代後半から、フィン系民族に属す
るヴェプス人は追放こそされなかったものの事実上の弾圧の対象になったようです。多分
、「民族地区」の廃止も一環だったんでしょうね。
第二次大戦中フィンランドがオネガ湖畔までを占領した際には、ヴェプスやカレリア人な
どフィン系住民には民族学校の設置などの特権が保証された一方、ロシア系住民は労働力
として動員すべく収容されたとあります。しかし正教徒で長年ロシア化されてきた両民族
ともフィンランドの篭絡作戦には乗らず、パルチザンとしてフィンランドと戦ったとのこ
と。ところが戦後は民族地区が復活するどころか、フィンランドから奪ったカレリア地峡
と同様に、ロシア系貧農の入植先とされたようです。

: 国境に
: 近いせいか、その周辺には見どころが尽きないですね。

その気になれば珍しいものはいろいろと見られるのですが、その国境の内外でインフラ事
情から住民の表情まであまりに違うのには愕然としますよ(涙)。
それではまた。
No.465 Re3: ヴェプス民族郷 ニジェガロージェッツ [2004/12/17(金)00:56:09]
No.464 アファナーシー=ニキーチン さん
両大戦間に存在したヴェプス人の「民族地区」についての、その廃止への経緯について、
興味深いお話有難うございました。
(御礼が遅くなり、恐縮です)

: 手元のロシア語の資料によれば、「冬戦争」前の1930年代後半から、フィン系民族に属す
: るヴェプス人は追放こそされなかったものの事実上の弾圧の対象になったようです。多分
: 、「民族地区」の廃止も一環だったんでしょうね。

スターリン時代の民族政策がいかに非情だったかを物語っていますね。
事情は異なりますが、現在のプーチン政権下で一段と中央集権化が進んでいるとの報道を
耳にしました。何でも、今まで選挙で選出されていた連邦構成体の州知事や共和国大統領
が、ロシア連邦大統領(プーチン氏)によって任命されるようになるとか。

: 第二次大戦中フィンランドがオネガ湖畔までを占領した際には、ヴェプスやカレリア人な
: どフィン系住民には民族学校の設置などの特権が保証された一方、ロシア系住民は労働力
: として動員すべく収容されたとあります。しかし正教徒で長年ロシア化されてきた両民族
: ともフィンランドの篭絡作戦には乗らず、パルチザンとしてフィンランドと戦ったとのこ
: と。ところが戦後は民族地区が復活するどころか、フィンランドから奪ったカレリア地峡
: と同様に、ロシア系貧農の入植先とされたようです。

そんな酷い話だったとは。ソ連時代の民族政策とは、結局こういったものだという印象が
冷戦時代よりありましたが、まさにそれですね。

: その国境の内外でインフラ事情から住民の表情まであまりに違うのには愕然としますよ(涙)。

以前にここで話題になったカレリア地方や湖水地方のことで、ニキーチンさんからヴィブ
ルク市のことが紹介されており、興味があったので、現地のwebサイトを見てみると、ロ
シアのそれとは趣の違う街並みの写真がありました。
http://www.vyborg.ru/
おそらく、フィンランド風の街並みと推測しますが、ここでも市内のインフラ状況はフィ
ンランド国内とは違うということですね。
No.466 ヴィーボルク アファナーシー=ニキーチン さん [2004/12/18(土)03:54:47]
: スターリン時代の民族政策がいかに非情だったかを物語っていますね。

別の例を挙げれば、「冬戦争」後も移住を拒んでカレリア地峡に残ったフィン系住民は少
数ながらいたようですが、結局は敵性民族として根こそぎウラル以東へ追放されたと聞い
てます。以前この掲示板でも話題になったドイツ人の運命と似てますね。ペレストロイカ
時代に名誉回復が行われ、フィン系民族の文化振興プログラムが策定されたり、各地に残
るフィンランド時代の文化・戦争遺産の研究が進んだようです。

かつてはフィンランド第二の都市だったというヴィーボルク以外でも当時の遺産を見るこ
とは可能で、プリアジョールスクなど10箇所近くにゴシック様式のルター派教会(の建物
)が残っています。現役で使われているのはフィン系住民の多いトクソボ程度ですが、プ
リモルスクのように郷土資料館として使われているところもあります。フィンランド時代
の資料や写真が展示の中心で、館員の方も、毎日のようにフィンランドからのお客さんが
来るのでフィン語を勉強してると言ってました。

: 以前にここで話題になったカレリア地方や湖水地方のことで、ニキーチンさんからヴィブ
: ルク市のことが紹介されており、

同市にはロシアには珍しいウェブカメラもあるので、リアルタイムの映像もどうぞ(www.vbg.ru
)。交通の便が良く日帰りで見物に行くには格好の街なのですが、中心部にも関わらず半
ば廃墟のまま放置された建物も目に付くのは少々残念でした。
No.467 カレロ=フィン共和国 ニジェガロージェッツ [2004/12/18(土)23:46:07]
No.466 アファナーシー=ニキーチンさん、ヴィーボルクについてのお話、有難うござい
ます。

: 別の例を挙げれば、「冬戦争」後も移住を拒んでカレリア地峡に残ったフィン系住民は少
: 数ながらいたようですが、結局は敵性民族として根こそぎウラル以東へ追放されたと聞い
: てます。

ヴィーボルクは今ではレニングラード州に属していますが、ソ芬「冬戦争」後にソ連に「
編入」されたカレリア地峡は、編入後に設立されたソ連邦第16番目の構成共和国「カレロ
=フィン共和国」の領土になっていましたね。
フィン系民族を敵視しウラル以東へ追放したとなると、その名称は極めて欺瞞的に感じま
す。ソ連っぽいと言えばそうですが。

【カレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国:Карело-Финская ССР】
1923年成立の「カレリア自治共和国」に、1940年の「冬戦争」でフィンランドより奪取し
たカレリア地峡の大部分を合せ、1940年3月31日設立したソ連16番目の構成共和国。
1956年6月16日廃止。再び「カレリア自治共和国」へ。カレリア地峡のうち、フィンラン
ド湾に面するヴィボルク市周辺はレニングラード州に移管。

: かつてはフィンランド第二の都市だったというヴィーボルク以外でも当時の遺産を見るこ
: とは可能で、プリアジョールスクなど10箇所近くにゴシック様式のルター派教会(の建物
: )が残っています。現役で使われているのはフィン系住民の多いトクソボ程度ですが、プ
: リモルスクのように郷土資料館として使われているところもあります。

興味深い北欧との国境地帯の歴史遺産を数多く見聞されているニキーチンさんならではの
お話、いつも面白く拝読しております。
私も現地へ行って、是非、見聞きしたいのはやまやまなのですが、時間と金銭の両方が無
いので、ネットだけで楽しむ以外にありません。(涙)
ご紹介いただいた、ヴィボルクのウェブカメラ。嬉しい限りです。

: 中心部にも関わらず半ば廃墟のまま放置された建物も目に付くのは少々残念でした。

ロシアの都市には結構こういう廃墟が都心の一等地にありますね。
タタルスタンの首都カザン市のターミナル駅前でも見かけましたし、観光地ヤロスラヴリ
の都心でも目に付きました。ニジニ・ノヴゴロドでは比較的少なかったように思いました
が。

ところで、ニジニ・ノヴゴロドにもウェブカメラのリアルタイム映像を提供しているサイ
トがあります。
場所はマクシム・ゴーリキー広場の東に面するНБД銀行の4階から、広場を見たところ
です。
宜しければ、ご覧になって下さい。
 ↓ ↓
参考: http://www.nbdbank.ru/camera.html
No.468 関東TV事情 господин Ондрей Заков [2004/12/29(水)23:39:37]
関東では今夕、所ジョージおよび明石家さんまの番組進行による
「笑ってこらえて」が放映され、作中、厳寒期のシベリア鉄道が
紹介されました。シベリア鉄道沿線でも、特に酷寒の地とされる
イルクーツクで途中下車、駅長代理の女性に見所を色々案内して
貰う趣旨ですが、特に面白かったのが、バイカル湖岸域における
旧線跡の一部を転用した観光鉄道らしき支線で、その透明度から
世界遺産の指定も受けているという湖の眺望は、山紫水明を好む
私の琴線に触れる事、大でしたね。

ところで、シベリア開発拠点都市として長い歴史を誇るであろう
イルクーツクの人口は約60万人との事。駅の利用者が一日あたり
一万人台との事ですが、かかる寒冷地における旅客列車の本数や
ローカル駅の設置頻度はどの程度なのでしょうか。何とは無しに、
蒸気機関車時代の東北、ないし北海道方面の旧国鉄の如き印象を
受けるのですが。
No.469 イルクーツク発の列車 ニジェガロージェッツ [2004/12/30(木)21:49:29]
No.468 Ондрей Заков さん

: 関東では今夕、所ジョージおよび明石家さんまの番組進行による
: 「笑ってこらえて」が放映され、作中、厳寒期のシベリア鉄道が
: 紹介されました。

その番組は、こちら関西でも放映されておりました。私も偶然ですが途中から見ました。
放送では、イルクーツク駅がシベリア鉄道で最も寒い駅としてクローズアップされていま
したが、実際には同鉄道は更に寒冷な地方も通っており、正確な表現ではありません。

参考までにロシアの気象サイト“Russia's Weather”
http://meteo.infospace.ru/win/climate/html/r_index.ssi
の各地平均気温によると
1月の最寒冷日の平均気温 ℃
イルクーツク(1月11日) -20.8
チタ(1月13日) -27.7
シルカ(1月11日) -29.6
スコヴォロジノ(1月7日) -31.3
となっています。

: ところで、シベリア開発拠点都市として長い歴史を誇るであろう
: イルクーツクの人口は約60万人との事。駅の利用者が一日あたり
: 一万人台との事ですが、かかる寒冷地における旅客列車の本数や
: ローカル駅の設置頻度はどの程度なのでしょうか。

イルクーツク駅の発車時刻表です
近郊電車 http://www.irk.ru/ref/etrain/
長距離列車(西行き) http://www.irk.ru/ref/train/west.html
長距離列車(東行き) http://www.irk.ru/ref/train/east.html

これによると、近郊電車は東行きで21本、西行きで19本です。但し、イルクーツク止りの
ものも含みます。
行き先は東へはバイカル湖畔まで行かない近郊止まりが多く、湖畔のスリュジャンカ(126
キロ先)まで行くのが5便、それ以遠ではウラン=ウデ行き(456キロ先)が土日の早朝に
1便出ている程度です。
西へは、州内のチェレムホヴォ(130キロ先)が多く、遠いところではジマ(250キロ先)
までです。

長距離列車は東行きが25本、西行き24本です。これもイルクーツク止りのものも含み、偶
数日、奇数日に限定のものもあります。
東へは極東ロシアの主要都市ウラジオストク、ハバロフスクなどへの便が多く、北京(中
国列車-土曜、ロシア-火曜)やウランバートル(月曜と日曜)行きの国際列車もあります
。
西へはモスクワ行きが11便と多く、ノヴォシビルスク、チェリャビンスク、ヴォルゴグラ
ードがあり、中にはハバロフスク発ヴォロネジ州リスキ行きといった「何で?」と思うよ
うな設定もあります。国際列車としては、ハリコフ(偶数日)、ミンスク(毎月1日発)
行きが1便ずつあります。

なお、ローカル駅の設置頻度については、東シベリア鉄道局の路線地図のリンクを出して
おきますので、ご参考まで。
http://www.rzd.ru/images/u_img.html?pi_id=9170&he_id=705
この地図には、放送で紹介されたバイカル湖畔のスリュジャンカ2=バイカル間の旧線も
描かれています。
No.470 イルクーツク 鉄道事情 господин Ондрей Заков [2004/12/31(金)09:46:30]
>近郊電車は東行きで21本、西行きで19本です。
>長距離列車は東行きが25本、西行き24本です。

気候風土から考えると、先ず先ずの頻度という感じでしょうかね。
東北や北海道でも同様の傾向があると感じますが、比較的寒冷な
地域では、暖地に比べて都市圏の拡大(衛星都市や周辺自治体の
分布頻度ないし展開度)が比較的小さい様に思われ、それゆえに
通勤列車設定もあまり顧みられる事は無い傾向が感じられました。
(仙台ですら、東北線の普通列車が全面電車化され、主要都市に
相応しい運転体制が確立されたのは、ここ20年来の話ですからね)
しかし流石はイルクーツクの面目躍如というところでしょうか。

>東シベリア鉄道局の路線地図のリンク

これを拝見すると、駅の設置頻度も先ず先ずというところですね。
バイカル湖北端を掠めているのがバム鉄道でしょうか。あるいは
以前言及した記憶がありますが、敷設現場の最前線では、奥地に
分け入れば分け入る程、休暇帰省が困難になるというジレンマを
若い作業員が憂いた報道映像を、以前TVで見た記憶があります。
No.471 本年もよろしくお願いいたします YSK さん [2005/01/01(土)00:20:18]
2005年がスタートしました!
多くの素晴らしい出来事に彩られる1年でありますよう、
お祈りいたします。

旧年中はたいへんお世話になりました。
本年もよろしくお願いいたします。

拙ページに「神戸M&M」をアップしました。
#2003年に続き、2004年もページの更新納めが「神戸M&M」
になりました!
http://www.chiikibun.com/kobe/kobe-mm.html

神戸では、フィールドワークでたいへんお世話になりました。
心より感謝申し上げます。
No.472 御礼 ニジェガロージェッツ [2005/01/01(土)23:50:43]
2005年がスタートしました。
旧年中は「自由広場ヤールマルカ」、拙HP「ニジェガローツキー・ドヴォール」共々、
たいへんお世話になりました。心より御礼申し上げます。

1年前を思い起こせば、「更新履歴」には拙HPは1月1日に51ページ目の「サイトマップ
」をUPしたのを記録しています。丁度今日、131ページ目の「ロシア人(民族)の人口
比率」をUPしましたので、去年1年で合計80ページUPしたことになります。
特に昨年の後半は、2002年全露国勢調査の詳細データが公表されたこともあり、拙HPで
も人口データの更新や、新ページの掲載を精力的に続けて参りました。その間にも皆様よ
り多くのご評価を頂き、また適時フォローもお寄せ頂きました。私自身はロシアの地理デ
ータを扱っているものの、この分野の専門家ではなく、単純に物好きの趣味としてやって
いるだけに、HP作成者として本当に励みになり、助かりました。

今年はどのような展開になるかはまだ分りませんが、まだまだ「ニジェガローツキー・ド
ヴォール」は未完成です。
これからも、皆様とともに巨大な北の隣国ロシアについて勉強していく一助になれば幸甚
です。そしてロシアの魅力、面白さを伝えていく事が出来れば、これに勝る喜びはありま
せん。(ちょっと欲張り過ぎかな)

今年もどうぞ宜しく御願い申し上げます。


No.470 Ондрей Заков さん
: バイカル湖北端を掠めているのがバム鉄道でしょうか。あるいは
: 以前言及した記憶がありますが、敷設現場の最前線では、奥地に
: 分け入れば分け入る程、休暇帰省が困難になるというジレンマを
: 若い作業員が憂いた報道映像を、以前TVで見た記憶があります。

確かにバム(バイカル=アムール)鉄道です。私もそのTVを見たことがあります。もう
20年以上前のNHKだったと記憶していますが。

No.471 YSK さん
: 拙ページに「神戸M&M」をアップしました。
: #2003年に続き、2004年もページの更新納めが「神戸M&M」
: になりました!

神戸では大したお構いも出来ず、申し訳ございませんでした。両毛地域という、神戸とは
あまり縁のない地域を拠点とされているYSKさんが、これほど神戸について精力的に取材
を続けられ、地元の住民としては本当に頭が下がる思いです。有難うございます。
No.473 掲示板の趣旨から外れますが господин Ондрей Заков [2005/01/17(月)16:59:17]
あの日から十年が経ちました。

当日の朝、寝惚け眼でTVのチャンネルをニュースに合わせると、
真っ先に映ったのが炎上する神戸の街の空撮映像でした。折から
激しさを増してしたチェチェン紛争関連の報道かと勘違いするも、
それがよりによって日本、しかも阪神地区という要衝と知った時、
後頭部を強打された様な思いでした。それから一週間後、被災地
各所に点在する親類や知人の安否確認に際し、公衆電話からだと
比較的繋がり易い事など教えられ、あちこち連絡して漸く無事が
確認された時の心境は、今尚忘れられません。

満十年を目前にして、TVでは当時の地震発生直後の映像が多々
紹介され、その凄惨さに心が痛むも、今般、ここまで復興された
神戸の街を見る時、地元の皆様のバイタリティーには、襟を正す
ばかりです。

願わくば、多くの方々の犠牲と引換えに得た心得ないしは教訓が、
今後の防災活動において、多々与します事を。
No.474 なつかしい ygr さん [2005/01/17(月)19:47:42]
ずっと以前のメッセージに返信レスするのもナンですが、
記念にちょっと、、、 閉鎖都市を研究してらっしゃるのですね。
なつかしい名前をネット上で見つけて、こちらのサイトにやってきました。
私は数年前、ジェレズノゴルスクに住んでいました。
いまはもうなんのかかわりもなく、
良くも悪くも思い出となってしまいましたが、いずれにせよ懐かしい名前です。
No.475 10年目の追懐 KOBE 1・17 ニジェガロージェッツ [2005/01/17(月)23:35:04]
No.473 Ондрей Заков さん
: あの日から十年が経ちました。

阪神淡路大震災へのメッセージ有難うございます。この10年は長かったようで、短かった
ようで、何と言いますか「波乱万丈」の歳月でした。

: 神戸の街を見る時、地元の皆様のバイタリティーには、襟を正す
: ばかりです。

本当に周りの皆さんはそれぞれがバイタリティーをもった人々で、転じて自分はといえば
、ニジニノヴゴロドへ逃避したり、一被災者として後ろめたい気がします。

Заковさんは震災当日にお感じになられたことを率直に書いて下さいましたが、私か
らも10年前のあの日、身に起こったことを少し長くなりますが、この場を借りて書かせて
下さい。

まず前日の95年1月16日は、15日の成人の日の振替休日で休日でした。
私は夕方に長田区のシンボル的な山、高取山(標高330m)に登り、家に帰った時に小さ
な揺れを感じました。夕方の6時20分頃だったと記憶しています。
神戸では珍しい地震だったので、注意してテレビの速報を待っていたのですが、この震度
1の地震は報じられませんでした。
その後、夕食の後に心臓に不整脈を起こし、普段ならすぐに治まるのですが、この日は2
時間以上にわたって脈拍300ぐらいの発作が続きました。未だにこの発作の原因は判りま
せんが、結果39度を超える熱を出し、さすがに気分が悪いので、9時過ぎには床に入りま
した。
この夜は熟睡しましたが、ふと揺れを感じて目を覚ましました、と次の瞬間、あの家ごと
大地に叩きつけられるような、形容し難い激震に襲われ、本棚などの部屋中の家具の下敷
きとなり、全く身動きが取れなくなりました。これが午前5時46分の本震でした。
辺りは信じられないほど静かで、その静寂があまりにも不気味で、この世の終わりを思わ
せるほどでした。
先に自力で脱出した弟と父に助け出され、何とか抜け出しました。
家は倒壊こそ免れたものの、全壊でした。
近所でまだ身動きが取れない人を探した後、両親は家から南2キロにある新長田駅近くの
店舗が気になってそちらへ行き、私は残りの家族を伴って近くの小学校へ避難しました。
小学校の近くに長田区の市街地を見下ろせる小高い丘があります。そこへ登って見ると、
区内の彼方此方から火の手が上がっているのが見渡せました。それでも不気味なほど街は
静かでした。消防や救急のサイレンも鳴っていません。ただ街が静かに延焼を待っている
かのようでした。
小学校へ戻り、火の手が上がっている町名を人々に告げ、再度丘に登り街を見ると、今度
は新長田駅の西側の、丁度うちの店がある一帯から煙が上がっているのを認め、私も祈る
ような気持ちで店へと急ぎました。

丘を下り、山陽電鉄の踏み切りを境界に街の様子は一変していました。
見る家みる家が軒並み倒壊していました。所々、倒壊家屋で塞がれている街路を掻き分け
、ようやく店に着いたのは午前9時頃だったと記憶しています。
店は無事に建っていました。しかし、町内から上がった火の手は西三軒先まで迫っていま
した。丁度向かいが中学校で、そこから放水ホースを出して延焼家屋に放水して火を消そ
うとしている最中でしたが、まもなくして水は止りました。
あとは為すすべもなく、店の中から当日納品予定だったいくつかの商品を隣の公園に引き
ずり出したところで、店の天井に火が回ってきました。店が焼け落ちたのは午前10時ごろ
でした。
震災直後には火災の発生を免れたこの町の出火の原因は、関西電力の通電によるものだっ
たと町内の人は言います。多くの家屋が倒壊し、電線がショートし、それに管が破裂して
街中に充満するガスに引火し、大火となったようです。関電が通電に及んだ経緯について
は知る由もありません。

ところが今度は家が気懸かりになりました。消防はあてには出来ない事は、店の一件を見
ても明白です。もし家のある町内から同じように火の手が上がれば、すべての家財を失い
ます。
幸いにも、家の近辺から出火はありませんでした。
後は避難先の小学校のテレビで、崩壊する神戸の街をただただ冷静に見ていました。
とはいえ、焼け落ちた店から公園へ引きずり出した商品がやはり気になって、車で回収に
向かったのですが、通常なら5分で行ける所を、途中、数箇所で大火の現場に巻き込まれ
たりで3時間かかって、ようやく到着しました。
その頃には、もう日が暮れていたのですが、付近一帯はどこまでも続く焼け跡と化してい
ました。
あの時は本当に何もかもが「終わった」と思いました。
「終わった」以上、生き残ったからには、好き勝手に生きてやろうと、どこか現実離れし
たことが頭を過りました。

今日であの日から10年です。
皆さんの「掲示板」にこのようなことを書き綴るのは、それこそ場違いですが、今日は私
にとって「特別な日」と言うことで、ご容赦下さい。

毎年この日になると、被災地で生まれた曲「しあわせ運べるように」が追悼で流れますが
、私には涙なしには聴くことが出来ません。
参考: http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/2983/siawase.htm
No.476 KOBE 1・17 YSK さん [2005/01/18(火)00:41:09]
阪神淡路大震災から、10年。

1995年当時、私は大学2年で、仙台から日に日に明らかになっていく被害の実態にただた
だ驚いておりました。そして、1994年夏、朝日に照らされた神戸の町を、列車の車窓から
羨望の眼差しで眺めていたことを思い出しました。あんなに美しい、素晴らしい街が!

Заковさんのおっしゃるように、多くの方々の犠牲と引換えに得た心得や教訓が、今
後の防災活動に活かされることを望みたいと思います。

私にできることは、「地域の旅人」として神戸をはじめとした阪神・淡路地域を見つめ、
情報を発信することです。先ほど、拙ページ「神戸M&M」トピックスに記事・写真を追加
しました。
http://www.chiikibun.com/kobe/topics/topics3.html

「しあわせ運べるように」、すてきな曲ですね。あの日の神戸の思いを後世までリレーす
る、大切なうたとして心に刻みたいと思います。
No.477 50000カウントですね YSK さん [2005/01/18(火)20:37:43]
おめでとうございます。これからも益々興味深いデータや写真等を
配信していってください。
No.478 50000カウント御礼 ニジェガロージェッツ [2005/01/19(水)00:18:19]
ついに50000カウントに到達しました。
これも皆様の日頃のご愛顧のお蔭です。深く感謝申し上げます。

No.477 YSKさん、ご祝辞どうも有難うございました。

ほとんど数字の羅列に等しい拙webサイトが、これほどのご支持を頂けるとは思っても
みませんでした。
これからも、ロシアという隣国について、一層の興味を持っていただけるように、拙we
bサイトの更なる充実を目指して行きたく存じますので、従前に変わらぬフォローを頂け
れば、望外の喜びです。
今後ともよろしくお願い申し上げます。
No.479 ジェレズノゴルスク ニジェガロージェッツ [2005/01/19(水)00:50:55]
No.474 ygr さん
はじめまして、管理人のニジェガロージェッツです。レスをお返しするのが遅くなり、申
し訳ございませんでした。

: 私は数年前、ジェレズノゴルスクに住んでいました。

クラスノヤルスク地方の閉鎖都市ジェレズノゴルスクにお住まいだったのですか。核に関
連する軍事機密都市と資料にはありますが、本当に驚きです。

: 良くも悪くも思い出となってしまいましたが、いずれにせよ懐かしい名前です。

現地ではいろいろなご苦労があったこととお察し申し上げます。
ジェレズノゴルスクのような閉鎖都市へは入域するだけでも大変だと仄聞しています。ま
た彼の地でのお話など、差し支えなければお聞かせ下さい。
これからもどうぞ宜しく御願い申し上げます。

: ずっと以前のメッセージに返信レスするのもナンですが、
: 記念にちょっと、、、 閉鎖都市を研究してらっしゃるのですね。

各地の都市や行政区画のデータをまとめていくうちに、各地に点在する「閉鎖行政地域」
というものを避けて通れなくなり、地理ネタとして面白いので、1ページ設けたのですが
、私自体は閉鎖都市を研究しておりません。
過去ログに幾度かご登壇頂き、多くの情報をご提供下さったtoshさんが、その道のご専攻
のようですが、今どうしておられるのでしょうか。
お元気でお変わりなければ良いのですが。
No.480 1.17 私見 господин Ондрей Заков [2005/01/19(水)14:38:08]
>辺りは信じられないほど静かで、その静寂があまりにも不気味で、

かかる生々しい証言を伺うと、遠い地での出来事と云え、かなり
衝撃を受けた当時の印象が蘇ります。満十年の当日は、被災者の
追跡調査を特集したNHK番組等、TVに噛り付いていましたが、
家族や身近な人々を失い、それでもなお生き残った意味とは何か、
被災者がそれぞれ葛藤しつつ自問自答する様子に、震災発生当時、
所帯を持つ事で、家族のあり様など、色々と思うところがあった
自分自身にも鑑みて、色々と考えさせられる事がありました。

震災後の物心両面における辛さを、実体験として体得していない
私如きが彼是と言えた義理ではないのですが、メリケン・パーク
界隈の、復興の象徴的存在であろう壮麗な夜景に感慨を覚えます。
No.481 Re: 1.17 私見 ニジェガロージェッツ [2005/01/21(金)23:32:34]
No.480 Ондрей Заков さん 
: 震災後の物心両面における辛さを、実体験として体得していない
: 私如きが彼是と言えた義理ではないのですが、メリケン・パーク
: 界隈の、復興の象徴的存在であろう壮麗な夜景に感慨を覚えます。

わがふるさとへのメッセージ、有難うございます。
神戸在住の一人として、心が晴れる思いです。

メリケン・パーク界隈の夜景は、絵葉書的にも神戸を代表するものですが、もともとが人
造の埋立地で、役所の描いたとおりのものが出来うる場所だと思います。
私が感じる復興の象徴的な景色は、山から見下ろす市街地のそれでしょうか。ただ、そう
いった表面的な復興に対して、住民一人ひとりの精神的な復興は、かけ離れている場合も
多く、実際に住んでみると愕然とさせられることもあります。
10年目は確かにひとつの「節目」ではありますが、「区切り」ではありません。

#先の拙稿No.475については、あまりにも個人的すぎる内容だったので、掲示板には合わ
ないとも思いましたが、「ああいう場面ではこんなことも起るのか」程度に考えていただ
ければとの想いから、10年目の節目ということで書き込みました。
皆様からは私信メールでも励ましのお言葉を頂戴し、本当に有難うございました。
この場を借りて、深く御礼申し上げます。
No.482 記事削除
(当ホームページ、掲示板とは一切無関係の出版物の宣伝を目的とする書き込みにつき、
申し訳ありませんが削除させていただきました。ご了解下さい。)
No.483 連邦構成主体別の民族人口 ニジェガロージェッツ [2005/02/04(金)22:11:12]
先月より作成していた連邦構成体別の人口上位10民族ランキング表が完成しました。
2002年の国勢調査による民族別人口については、No.418にてアファナーシー=ニキーチン
さんに教えて頂いたように、2002年全露国勢調査のサイトにて180以上の民族人口が89連
邦構成主体毎に集計された結果がネット上に公開されています。

それを扱うとしても、原文をそのままカタカナに置き換えてみたところで味気ない話で、
またデータ量も膨大です。それならば興味ある方にはロシア語の習得を奨励して、当該サ
イトへのリンクを貼るだけで十分だと考えます。

そこで拙HPでは、人口上位10民族に限定してのランキング表を作成し、前回の1989年全
ソ国勢調査結果人口の同様のものと合わせてみました。
1989年のデータはロシアで出版された「事典・ロシアの諸民族」
 Народы России : Энциклопедия
より人口データを得ました。
この事典には巻末に連邦構成主体別に民族人口データが載っているのですが、おおよそ1000
人以上の民族しか記載がないために、上位10民族が出揃っていないものもありますので、
この点はご勘弁いただければ幸いです。

さて、作成していて特に目立ったのは全国的にアルメニア人とアゼルバイジャン人の人口
増加と、逆にウクライナ人とベラルーシ人の人口減少でしょうか。
またユダヤ人やドイツ人人口も全国的に減少していますが、但しドイツ人については、た
だ一箇所、人口が激増しているところがありました。
それは旧ドイツ領でバルト海の飛び地カリーニングラード州で、1989年人口1,307人(13
位)が2002年には8,340人(6位)と6倍以上になっています。
これは一体何を意味しているのでしょうか?
No.484 シャラポア 萌え (^ ^) господин Ондрей Заков [2005/02/09(水)15:14:44]
俗物的話題で恐縮ながら、以前テニスを齧っていた立場もあって、
シャラポア選手に「萌え」な昨今であります。プロフィールなぞ
調べて見ると、1987年シベリアに生まれるも、二歳の時にソチに
移住しており、その理由が、誕生以前に発生したチェルノブイリ
原発事故の影響と言いますから、影響が及んだ地理的範囲や期間、
そして被害の深刻さたるや、推して知るべしですね。

原発事故が発生した1986年は、年明け早々のスペース・シャトル
チャレンジャー号の爆発事故や関東地方の大雪、三原山の大噴火、
そして山陰線餘部鉄橋での列車転落事故など、ハレー彗星接近の
凶兆を演出する様な雰囲気すら感じました。

同原発事故が、前年発足したゴルバチョフ体制の主要眼目である
グラスノスチを確立する一大契機になった様ですね。これがもし
従然から制度化されていれば、秘密主義に基く被害拡大に対して
一定の防止効果があったのでは、という話は間々聞かれました。

ソチといえば、黒海沿岸の保養所という印象が強く、ソ連時代も
共産党の主要幹部の別荘が多かったそうですね。その温暖さゆえ
充実し得たテニス・スクールが、シャラポアやカフェルニコフを
輩出した訳ですね。言うなれば、裕福なエリート層の街、という
位置付けでしょうか。そう言えば、第二次世界大戦の戦後処理が
話し合われたヤルタも、黒海沿岸の保養地でしたね。

ちなみにシャラポア選手、身長は私と同じ位ですが(少し意外)
体重は私の六割程度。自身の中年体形が哀しく思えます(^^)
No.485 シベリアまでチェルノブイリの影響とは・・・ ニジェガロージェッツ [2005/02/10(木)21:58:07]
No.484 Ондрей Заков さん、テニスで大活躍中のロシア出身のシャラポワ選
手についての話題提供、有難うございます。
ただ、あまのじゃくな私としては世間が騒げば騒ぐほど関心が薄くなるというか、もとも
とテニスというスポーツに興味がないのもあって、同選手についてはTVニュースで見掛
けるぐらいのことしか知りませんでした。
 
ということで、まともなレスをお返しできないのが恐縮ですが、地理的な話題のみのレス
にて失礼します。

: プロフィールなぞ調べて見ると、1987年シベリアに生まれるも、
: 二歳の時にソチに移住しており、その理由が、誕生以前に発生し
: たチェルノブイリ原発事故の影響と言いますから、影響が及んだ
: 地理的範囲や期間、そして被害の深刻さたるや、推して知るべし
: ですね。

確かに仰るとおり日本語で「シャラポワ」選手を検索すると、各webサイトにはそのよう
に彼女の生い立ちについて解説されているようです。しかしどう考えても遠くシベリアに
までウクライナ・チェルノブイリ原発事故(1986年4月26日発生)の影響が、転居を強要
されるほどの被害として及ぶとは考えられなかったので、念のためマリヤ・シャラポワ選
手のロシアのwebサイトを見てみますと、若干状況が違うようです。
http://www.sharapova.ru/biography.html

これによると、シャラポワ選手は1987年4月19日、現在のウラル連邦管区にあるハンティ
・マンシ自治管区ニャーガニ市の生まれですが、移住を強要されたのは彼女が生まれる前
に両親が住んでいたベラルーシ共和国のゴメリ市のようです。これなら納得がいきます。
同市を州都とするゴメリ州は、チェルノブイリが位置するウクライナのキエフ州の北隣に
あり、原発事故の被害は、当時の風向きから北へ広がったようで、当のウクライナよりも
、ベラルーシの方が深刻な状況だったと聞きます。
ですから原発事故の影響で西シベリアのニャーガニ市から黒海沿岸のクラスノダール地方
ソチ市への移住ではなく、ベラルーシのゴメリ市からニャーガニ市へというのが正しいと
思います。
ニャーガニ市は1976年創設、1985年に市制施行された石油・ガス産業の若い町で、その後
急速に発展し、シャラポワ選手が生まれたころの人口は5万人位でしょうか。

ソチへの移住について前出のサイトでは、彼女がテニスを始めたのが4〜5歳のことで、家
族はすでにソチに住んでいた時のことと触れられている以外には記述がなく、詳細は分か
りませんが。

: ソチといえば、黒海沿岸の保養所という印象が強く、ソ連時代も
: 共産党の主要幹部の別荘が多かったそうですね。その温暖さゆえ
: 充実し得たテニス・スクールが、シャラポアやカフェルニコフを
: 輩出した訳ですね。言うなれば、裕福なエリート層の街、という
: 位置付けでしょうか。そう言えば、第二次世界大戦の戦後処理が
: 話し合われたヤルタも、黒海沿岸の保養地でしたね。

ソチ市を含む黒海沿岸は、ロシアでも人気の保養地で、シベリアや極東の人はどう言うか
分かりませんが、一般に欧露部のロシア人がバカンスなどで「南へ行く」というと、ソチ
やウクライナ領のクリミア半島などを指すようです。
但し、近年はチェチェン戦争やグルジアの政情不安の影響もあって、黒海沿岸を含む北カ
フカス地域も決して安全なところではないようにも思えるのですが・・・。
参考: http://nyagan.org/
No.486 HP移転のお知らせ 太白 さん [2005/03/02(水)00:26:08]
お久しぶりです。太白です。
都合により、HPを移転しましたので、リンク先の変更をお願いいたします。…といって
も、このところ殆ど更新しておりませんが。

最近の私とロシアのつながりといえば、沿海州だのエニセイ川の「上空」はよく通過して
おります。そこで沸いた疑問が1つ。
日本からヨーロッパへの最短ルート(大圏航路)をとると、おそらく、北朝鮮上空を通る
ことになると思います。なので、飛行機は沿海州の上空を通過するわけです。しかし、そ
うだとしても、沿海州をちょっとだけ横切って中国東北地方上空を通過する方が、更に最
短ルートだと思うのですが、ヨーロッパへの飛行ルートを見る限り、沿海州をわざわざ北
上してから北西に進路をとり、シベリアに向かいます。
 時間と燃料代の無駄だと思うのですが、中国領空を飛ぶと、お金がかかるんでしょうか
。(あるいは、飛行禁止区域?)
参考: http://www.withe.ne.jp/~taihaku/index.html
No.487 こちらこそ、ご無沙汰しております。 ニジェガロージェッツ [2005/03/03(木)00:44:50]
No.486 太白 さん、お久しぶりです。
こちらこそ、貴BBSには随分とご無沙汰を重ねており、申し訳ございません。
貴HP移転のお知らせ、有難うございました。「ヤールマルカ過去ログ」の貴記事(No.139
、141、146)を含め、リンク先を変更させて頂きました。

: 最近の私とロシアのつながりといえば、沿海州だのエニセイ川の「上空」はよく通過して
: おります。

長らくの米州暮らしの後、今では欧州でご活躍の由、正に世界をまたに掛けての大活躍、
ご同慶の至りですが、どうぞご健康を害されることの無い様、お祈り申し上げます。

: 日本からヨーロッパへの最短ルート(大圏航路)をとると、おそらく、北朝鮮上空を通る
: ことになると思います。なので、飛行機は沿海州の上空を通過するわけです。しかし、そ
: うだとしても、沿海州をちょっとだけ横切って中国東北地方上空を通過する方が、更に最
: 短ルートだと思うのですが、ヨーロッパへの飛行ルートを見る限り、沿海州をわざわざ北
: 上してから北西に進路をとり、シベリアに向かいます。
:  時間と燃料代の無駄だと思うのですが、中国領空を飛ぶと、お金がかかるんでしょうか
: 。(あるいは、飛行禁止区域?)

東京を中心とした正距方位図法で書かれた地図を見ると、例えば英国のロンドンは丁度東
京の北北西、約1万キロの所に位置していますね。
東京の北北西に線を引くと、近い順にロシア・ハバロフスク、ノリリスク、ムルマンスク
、ノルウェー・オスロ、と言ったところを通るようです。ハバロフスク付近では、ごく僅
かですが中国領を掠めています。
航空業界のことは全く存じ上げませんが、(領空の通過はある種の協定のようなものを結
ばない限り飛行禁止だと思うのですが)この線だとあえて中国側と協定を結んでまで中国
上空を通るほどのものでもないのでしょう。

私はヨーロッパ方面といえばモスクワ便しか乗ったことがありませんが、例えば通常目に
する地図を思い描くと、ハバロフスクまでは北へ、そこからはモスクワへは西へ西へと向
きを変えそうに連想しますが、実際にはほとんどそのままの方位を変えずにサハ共和国上
空を通過し、西シベリア北部上空からウラル山脈を横切り、ペルミ州べレズニキ上空を通
りモスクワへ到着します。
途中、巨大な二つの大河が合流するところに小さな町が見えるのですが、私はこれをオビ
川とイルティシ川の合流点にあるハントゥイ=マンシースクだと思っています。

東京(横浜)を中心とした正距方位図です。
参考: http://www.dxing.jp/soft/HEAD-JA1.png
No.488 リンク張らせていただきました TENDERFAT [2005/03/18(金)23:11:43]
こんにちは
「シベリアの花」のTENDERFATです。

ただいまリンク張らせていただきました。
地図もありがたく使わせていただきます。

これからも宜しくお願いします。
参考: http://www1.odn.ne.jp/tenderfat/siberia/top.html
No.489 シベリアの花 ニジェガロージェッツ [2005/03/19(土)03:51:06]
TENDERFATさん、ようこそヤールマルカへ。管理人のニジェガロージェッツです。

「シベリアの花」という題名にたがわない美しい貴サイトのご紹介、有難うございます。
また、拙サイトへのリンクまでお張りいただき恐縮です。
重ねて御礼申し上げます。

貴サイトは美しいシベリアの風土を数多くの写真を添えて情緒的に紹介しておられ、素晴
らしいものだと感じ入りました。
トピックスのページにある野花に囲まれた赤いテントに
“толстяк”(でぶ)の文字、
如何にもあの国らしくて思わずニンマリです。

: 地図もありがたく使わせていただきます。

あの程度の白地図でしたら、ご自由にどうぞ。ただ、あのままでは味気なく、美しい貴サ
イトには合わないように感じます。TENDERFATさん一流のセンスで味付けして頂ければと
思います。

近日中に拙サイトからもリンクを張らせて頂きます。相互リンクが出来ましたら、貴BBS
へご挨拶に上がります。
それでは、これからも末永く宜しくお願い申し上げます。
過去ログ5 へ 過去ログ7 へ

このページのトップへ▲