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ロシアの都市人口推移の歴史を、過去の人口センサスデータを中心にまとめました。 ここでは過去の都市人口データを、「市別人口推移編」と「過去の都市人口ランキング編」の2編に分けてご紹介します。 |
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市別人口推移編 |
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ロシアで「市」(ロシア語で “город”)の称号を得た全1105市(*注)について、1939年、1959年、1970年、1979年、1989年、1992年、1996年、2000年の各市の人口データを集めましたが、一部の市では当該年次のデータのないものもあります。 各市の位置やロシア語表記については、「市一覧」をご参照下さい。 |
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(*注) |
2001年1月1日現在の1097市に加え、1990年代末にサンクト=ペテルブルグ市に統合された形の8市を含む全1105市、前出の「市一覧」では以降に市制施行となったモスクワ州チェルノゴロフカを足し1098市としています。 |
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市別人口推移表 目次 |
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過去の都市人口ランキング編 |
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ロシア帝国からソビエト連邦を経て、現在のロシア連邦に至る変遷の中で、ロシア(ソ連)の人口10万人以上の大都市を中心に人口データを集め、ランキング表としてまとめました。 各市の古い人口データは、世界各国の地域、都市の人口データを網羅したサイト“POPULATION STATISTICS”に掲載されているデータをベースにしましたが、データのない部分は“Мой Город”をはじめ、各地の地理サイトや地理事典で補いました。 |
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過去の都市人口ランキング表 目次 |
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時代背景 | この当時の帝政ロシアは、1861年の農奴解放で知られる「解放皇帝」アレクサンドル2世の治下にあり、西はポーランド、フィンランドから東は北米アラスカ(1867年米国に売却)まで版図とし、極東では1860年に清国と北京条約を結び、沿海州を入手しています。一方、中央アジア方面ではロシアの支配が確立しておらず、ようやく1865年にタシケントを、1868年にサマルカンドを占領したに過ぎません。 また対トルコ方面では、クリミア戦争(1853〜1856年)での敗北の結果、外カフカス及びベッサラビア(現在のモルダビア)方面で国境の後退が見られます。 ポーランドはロシア、プロシア、オーストリアの3国に分割されており、ロシア領ポーランドは現在のポーランドのうち、ウッジ以東、ワルシャワ周辺から成っていますが、1861年から64年にかけて2度の大規模蜂起が起きています。 交通網はまだ未発達で、1851年に首都サンクト=ペテルブルグとモスクワ間に鉄道が開通し、各地へ鉄道網の建設が始まったばかりです。 |
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都 市 | 人口100万を越える大都市はなく、人口10万人以上でもサンクト=ペテルブルク、モスクワ、ワルシャワ、オデッサ、キシニョフの僅か5都市のみです。中央アジアの3都市(一部は未占領)以外で人口3万人以上の都市はヨーロッパ・ロシア部のもので、シベリア経営の拠点のイルクーツク、トムスク、オムスクの3都市はまだ2万人台に留まっています。 この時代の都市人口率は約10%程度。 |
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時代背景 | ロシア帝国最初の全土を対象とした人口センサスが1897年2月9日に実施されました。しかし、トルストイやチェーホフといった知識人まで動員して大々的に実施されたものの、広大なロシア帝国をすべて網羅するのは困難で、シベリア地方では住民の30%が調査からもれていたとさえ言われています。 帝国全土の人口は1億8520万人を数え、これは当時の全世界の人口の10%にあたり、大英帝国、清帝国に次いで世界人口第三位の大国になっています。 この時点のロシア帝国の版図は米国に売却したアラスカを除き史上最大となり、1877-78年の露土戦争によって、外カフカスの全域を併合した他、クリミア戦争での失地も回復しています。 中央アジア方面では、そのほとんどをロシアに併合し、残部にはヒヴァ、ブハラの2つの保護国を設けて支配し、植民地主義の列強としての地位を確立しています。 1880年代半ばから15年にわたる国家主導の工業化の中で、軍事強国と近代化が推し進められ、重工業に重きがおかれて軍事産業と結びついた鉄道拡張が実施されました。これによって国内に市場が生まれ、人口の多い中部地域と南ロシアが結ばれた他、一方ではシベリア鉄道の建設が1891年に始まり、1860年に1,500kmだった鉄道は1890年には30,000kmにまで延びています。 時代はアレクサンドル2世の暗殺(1881年)から、反動的なアレクサンドル3世の治世を経て、ロシア最後の皇帝ニコライ2世の即位(1894年)を迎えています。 |
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都 市 | 首都サンクト=ペテルブルクとモスクワで人口が100万人を突破しました。また1年を通して氷結しないとりわけ重要な港湾を持つオデッサと中央ロシア部が鉄道で直結されたことから、オデッサの人口増加も目立ちます。不凍港としては他にバルト海に面し、バルチック艦隊の母港として建設途上のリバウも一気に人口7万を擁する都市に発展し、一方では河川を利用した水運需要の関連もあり、ヴォルガ河中下流域のニジニ・ノヴゴロド、カザン、サマーラ、サラトフ、ツァリーツィン、アストラハンといった一連の都市群が上位に名を連ねています。バクーでは油田が発見され人口が劇的に増加しています。 またシベリアではトムスク、イルクーツクが人口5万人を越えていますが、極東のウラジオストク(28,900人)、ハバロフスク(16,400人)はランキング外に留まっています。 |
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時代背景 | 1897年の人口センサスに次いで、1915年に全国的な人口センサスが計画されていましたが、これは第1次世界大戦の勃発により実現しませんでした。ここでは、戦前の1911〜12年の人口データを集めてランキング表にしました。 1880年代に始まる飛躍的な工業化は、それ以前の西欧先進諸国の工業発展の過程を辿り、とりわけロシアな安価な労働力は先進諸国に魅力的でもありました。工場労働者は家族とともに都市で暮らすようになり、都市人口は倍増しますが、まだ大部分の労働者は依然として季節ごとに出稼ぎして都市と農村を往復していました。 領土は1897年に比べ、日露戦争の結果樺太南部を失った以外には変化はありません。 |
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都 市 | 1897年に比べて上位の都市順位に大きな変化はありませんが、油田の都市としてバクーの劇的な人口増加は続いており、また極東のウラジオストクが人口9万人を越えるまでに発展しています。 |
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時代背景 | 第1次世界大戦中の1917年にロシア革命が勃発し、ついにロシア帝国は崩壊します。革命後のロシアでは、ドイツ側とのブレスト=リトフスク講和条約により、ウクライナを含む広大な地域を割譲し、農地の3分の1、工業地帯の2分の1、人口の3分の1を失いました。ドイツの敗戦によって大戦が終結したことから、この条約は反故とされますが、それでもポーランド、フィンランド、バルト3国は独立を勝ち取り、ヨーロッパ部の国境はおおよそペトログラード(現サンクト=ペテルブルク)―ミンスク―オデッサを結ぶ線まで後退しました。 1920年という時代は革命後の混乱期にあたり、国内戦は完全には終結しておらず、対ソ干渉戦争もまだ続いており、ソビエト連邦の成立(1922年12月)には至っていません。こういった状況下の1920年8月28日にロシア革命後初の人口センサスが実施されますが、社会情勢は混乱を際め、調査員の不足だけでなく、紙にさえ事欠くありさまで、地域によっては全く調査が行われず、全人口の3割近くしかカバー出来なかったようです。1923年にもセンサスの実施がありましたが、都市に限定されたようです。 |
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都 市 | 革命とそれに続く内戦、干渉戦争によって戦場となった都市では人口の激減が見られ、特にペトログラード(サンクト=ペテルブルク、のちレニングラード)の革命前の1915年人口2,318,600に対して1920年人口722,000で約7割の人口減が見られます。モスクワでも2,019,500人から1,028,200人と半減していますが、新たに首都となり、人口ではペトログラードと首位が逆転しています。 また、領土の縮小からポーランド(現在のベラルーシ西部とウクライナ西部を含む)、フィンランド、バルト3国の諸都市およびルーマニアに編入されたベッサラビア(現在のモルダヴィアの大部分)を失っています。 |
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時代背景 | 内戦と戦時共産主義、それに続く飢餓によりかつてのシステムはことごとく破壊され、飢餓の広がった1921年にはヴォルガ沿岸地域やウクライナを中心としたヨーロッパロシア東部と南東部で何百万という大量死が出たそうです。 これら教義的な共産主義経済の実践での失敗から、民間企業の規制を織り込んだ新経済政策=ネップという混合経済を導入し、ようやく復興の兆しが見えはじめました。その後はネップ政策が着実に成果をあげ、レーニンの死後(1924年)の1926年までに農・工業とも、ほぼ戦前の1913年の水準にまで回復しました。 そういった中で、ソ連全土を対象とした初の人口センサスが1926年12月17日の実施されました。 それによると、ソビエト連邦の総人口は1億4702万7915人となっています。(1913年のロシア帝国の総人口1億6570万人) |
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都 市 | 人口10万人以上の都市が31に増え、ほとんどの都市でほぼ第1次大戦前の人口規模を取り戻すか、またはそれ以上の水準に達しています。 特にバクーは躍進を続け、他にも南ロシアのロストフ=ナ=ドヌ、クラスノダール(旧エカテリノダール)、スターリングラード(旧ツァーリツィン)の人口増加が目立ちます。ウラルからシベリアにかけてもスヴェルドロフスク(旧エカテリンブルグ)、オムスク、ノヴォシビルスク(旧ノヴォニコラエフスク)と相次いで10万都市が誕生し、イルクーツクとウファが10万人に達しようとしています。また日本海に面する軍港ウラジオストクが極東ソ連初の10万都市に成長しています。 その一方で1911〜12年の人口規模を回復していないのは首都をモスクワに譲ったレニングラードとオデッサが目立ち、戦前にシベリア初の10万都市となったトムスクでは、開通したシベリア鉄道がそれてノヴォニコラエフスクを通ったことから、戦前の人口に及んでいません。 |
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時代背景 | スターリン独裁体制下の恐怖政治にさらされた時代です。この1939年には、9月1日にヨーロッパで第2次世界大戦が勃発し、当時のソ連はナチス・ドイツとの密約から9月17日にポーランド東部に侵攻し、国境を大きく西へ押し広げ、この地域をウクライナと白ロシア(ベラルーシ)に編入しました。これにより、近代以降では一度もロシアに属したことのないガリチア地方(リヴォフ市周辺)もソ連領となりました。 翌1940年にはフィンランドからカレリア地峡を、ルーマニアからベッサラビアと北ブコビナを入手し、バルト3国も併合するに至っています。 人口センサスが行われたのは、この一連の領土拡張以前の1939年1月17日のことで、ソ連では1926年に次ぐ「2度目」の人口センサスになりました。(実際には1937年1月6日センサスの実施があり総人口1億6200万人を数えましたが、スターリンの意に達しない低い人口結果とされ、調査に不十分とか欠陥があったと難ぐせをつけて、関係者を「人民の敵」などとして処刑) その結果、ソ連全体(9月17日以後の領土拡張分を含まない)の人口は1億7060万人となりましたが、目標数字の「達成」への当局の圧力から水増し報告をする調査員も少なくなかったそうです。 |
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都 市 | 工業化推進政策で、炭田を中心に工業地帯が各地に形成され、中でもウクライナ東部を中心としたドンバス地域(ハリコフ、ドニェプロペトロフスク、ロストフ=ナ=ドヌ、スターリノ、ザポロ−ジェ、マケーエフカ、ヴォロシーロフグラードなど)、ウラル山脈南部のウラル地域(スヴェルドロフスク、ペルミ、ウファ、チェリャビンスク、ニジニ・タギルなど)、シベリアのクズバス地域(スターリンスク、ケメロヴォ、プロコピエフスクなど)に一大工業地帯が出現しました。結果としてこれらの都市が上位ランキングへ名を連ねています。また首都モスクワ、ペテルブルグでは人口が倍増しているのが目に付きます。 |
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時代背景 | 1941〜45年の独ソ戦(大祖国戦争)では、レニングラード―モスクワ―スターリングラードの線までのソ連西部・南部がドイツに蹂躙され、大量の人員と機械が東へとウラル地域や中央アジア、シベリアへ運び込まれました。戦後の復興の中でもこの傾向は続きます。1959年では既にスターリンはなく(1953年死亡)、フルシチョフの時代が始まっています。この時代は米国に対峙する超大国の地位を確立し、宇宙開発競争を含む軍備拡大競争の時代に入っています。 独ソ戦争の勝利の結果、1940年までに拡張したソ連領は、ビアリストクをポーランドに返還した以外は更に拡大し、ドイツからカリーニングラードを、チェコスロバキアからはザカルパト地方がソ連に併合されています。 戦後初めての人口センサスは1959年1月15日に実施され、その結果、ソ連全土の人口は2億880万人となっています。 |
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都 市 | 各地で人口50万人を越える大都市が出現し、独ソ戦争で破壊された都市も多くは戦前の人口を上回る規模に回復、発展しています。モスクワでは発展は郊外に及び、ペロヴォ、バーブシキン、クーンツェヴォ(後にモスクワ市へ編入)、ポドリスクで人口10万人を越え、大都市圏の形成が見られます。 その一方で、炭田を中心に発達したシベリアのプロコピエフスク、キセリョフスク、チェレムホヴォ、アンジェロ=スジンスクなどでは、早くも最盛期を迎えています。 |
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時代背景 | フルシチョフの失脚(1964年)で、ブレジネフの「停滞の時代」が始まり、東西両陣営間では緊張とデタントが繰り返され、1970年にはソ連の軍事力は米国と対等のものにまでなりました。その一方で中ソ対立が顕著になった時代です。 1959年に次ぐ人口センサスは1970年1月15日に実施され、その結果、ソ連全土の人口総数は2億4172万134人と数えられています。なお、各都市の人口データは国際連合統計局編 「世界人口年鑑 1972年版」を参照しました。 |
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都 市 | 計画経済下での工業化が進み、都市人口は増大し各地で続々と100万都市が誕生しています。1970年では100万都市が9つを数えますが、更に80万人以上の都市が11控えており、この傾向は続きます。人口10万人以上の都市は222に達し、名実共に超大国となっています。 政治・経済では「停滞の時代」の始まりですが、都市の人口に限っては順調に延びています。旧ソ連の都市でよく見かける5階建て程度の箱型の集合住宅「フルシチョフカ」が大量に建設されたのもこの時代のようです。 |
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時代背景 | 1979年12月のソ連のアフガニスタン侵攻に象徴されるように、東西間の緊張がピークに達し、「第2の冷戦」と呼ばれた時代です。 1970年に次ぐ人口センサスは1979年1月17日に実施され、その結果、ソ連全土の人口総数は2億6243万6227人を数え、この9年間に約2072万人の増加をみますが、全人口の約半数を占めるロシア共和国では747万人の増加に留まっており、中央アジア諸共和国での人口増加に比べて鈍化しています。 |
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都 市 | 1970年に比べ、100万都市は18都市に倍増し、更なる都市の成長が続いていますが、その一方では炭田を中心とした工業都市では、人口増加に陰りが見え、一部では減少に転じています。 |
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時代背景 | ブレジネフは1982年に死去し、指導者(書記長)はアンドロポフ、チェルネンコといずれも死亡により短期に終わり、次いで1985年に政権の座に就いたゴルバチョフは、共産主義体制を維持しながらも経済停滞を克服するために、「ペレストロイカ」(立て直し)政策と呼ばれる上からの改革を実行し、更に民主化と開放的な議論を活発にする「グラスノスチ」(情報公開)政策を導入します。 しかし、自分の考えをより自由に表現できるようになると、政府への批判も可能となり、人々はより一層の変革を要求するようになり、結局はソ連の解体へと突き進みました。 このような時代背景の中、1989年1月12日に実施されたセンサスは、ソ連最後の国勢調査となり、構成15ヶ国を網羅した最後の調査となりました。その結果、ソ連全土の人口総数は現住人口で2億8673万817人、うちロシア共和国の人口は1億4740万537人、常住人口で2億8574万2511人、うちロシア共和国の人口は1億4702万1869人と公表されています。 |
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都 市 | 前回の1979年センサスに比べ、100万都市は23に及ぶなど、ほとんどの都市で着実な人口増加がみられますが、中央アジアやアゼルバイジャンの諸都市を除き1990年代より人口の自然減の現象が始まり、多くの都市では人口の最盛期を迎えています。 |
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時代背景 | ソ連の解体(1991年12月)により、ロシア帝国以来の領土は失われ、新生ロシア連邦の人口は旧ソ連の約半分を引き継いだ程度に留まりました。国外となった中央アジアや外カフカス、バルト3国、ウクライナ等の地域から多くのロシア人が「帰国」する一方、ロシアに暮らす旧ソ連構成国の非ロシア人の「帰国」の流れもありました。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
都 市 | ソ連を代表するキエフ、タシケント、ミンスク、バクー、リガといった多くの大都市が外国となりました。 モスクワ、サンクト=ペテルブルクの2大都市に次ぐ第3の都市はニジニ・ノヴゴロド、ノヴォシビルスクとなった他、人口の半減に比例してロシアが継承した10万人以上の都市数は、ソ連時代1989年の299から169(グローズヌイ、セーヴェルスクを含む、1994年)となりました。 都市の内部では、確実に人口の自然減が見られ、多くの都市で1989年の水準から後退しており、この現象は21世紀の現在でも進行中です。 人口増加が目立つのは、北カフカスのクラスノダール、スタヴロポリ、ヴラジカフカス、マハチカラなど、南ロシアのベルゴロド、カルーガなど、石油産業関連の都市スルグート、ニジネカムスクなど、自動車産業で栄えるトリヤッチ、ウリヤノフスク、といったところです。 なお、ユジノ=サハリンスクが1994年から95年にかけて12%の人口増加を見せていますが、これは同市が北に市域を拡張したことによるものです。 |
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時代背景 | 新生ロシア連邦での初めての国勢調査が2002年10月9日から16日にかけて実施され、翌年春に各連邦構成体ごとの人口総数や都市人口、農村人口などの速報値が公表され、2004年には確定値が発表されるに至りました。 これによると、ロシア連邦の人口総数1億4516万6731人となり、1989年のロシアの人口総数に比べ185万5138人の減少となっています。 |
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都 市 | 1992年以降での人口の自然減の現象がはっきりと現れ、1989年人口に比べ、そのほとんどが低い人口値となっています。 一方で人口が激増している都市もあり、特に市場経済化の流れの中、首都のモスクワへの人口の集中が裏付けられ、市域のみでは欧州初の1000万都市が誕生しています。 人口の流れでは、南部の諸都市で増加、北部では減少といった傾向が見受けられます。 特に紛争の続くチェチェン共和国に隣接する北カフカスのダゲスタン共和国の都市マハチカラ、ハサヴュルト、デルベントで人口が急増し、イングーシ共和国のナズラニでは約7倍にまで激増しています。 一方で北部では、軍港都市と言われるムルマンスク、セヴェロドヴィンスク、ペトロパヴロフスク=カムチャツキーで人口が急減し、他にもノリリスク、アルハンゲリスクでも大幅な人口減、オホーツク海岸のマガダンでは10万都市から陥落しています。 |
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